諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

神道、仏教、キリスト教の食べ物についての考え方の違い。その2

2016年11月21日 10時52分02秒 | 神道

続きます。

食べて良い物。それは食べられる為に生まれて来た食べ物です。

ミルクの場合は母親が子供に飲ませるために存在します。それを横取りして良いのかとまでは考えませんが、ミルクは母から子への贈り物。飲まれるために生まれた。だから飲んでも良いのです。

トマトやメロン、カボチャ、柿等の場合は、動物に食べられて種を運んでもらい糞と一緒に排出される。これらも食べられて他の土地に運んでもらうのが目的です。食べられる為に存在するのです。

米や麦、ほうれん草、きのこ、セロリ等々は植物であっても生きている存在。食べられる為に存在している訳ではない。だから食べてはダメ。そう考えているようです。

こんなに厳しいから本来の仏教は廃れたと思います。また、本来の仏教は下ネタになっちゃうので今回はお話しませんが、女性に対してあんまりな考え方をします。それも廃れた原因になりますね。

キリスト教の場合はどうか。

キリスト教では「神>人間>自然」と考えます。山や川、海よりも人間が上。だから自然の贈り物なら何だって食べて良い。自然破壊しても許される。キリスト教の神は羊のお供え物を喜びますが、動物も魚も自由に食べて良い。人間の方が偉いのだから。

神道の場合は「神=自然>人間」と考えます。だから自然の象徴である山を神と考える。山神、水神、穀物神等々、自然の恵みは神の恵み。大切に考えています。

アイヌのイオマンテでも判りますが、神が肉や毛皮を人間にプレゼントするために、熊などの動物に変身し下界に降りて与える。人間はそのお礼に神である熊を祀り、穀物等のお供えして神に天上界にお戻りいただく。

神が熊になり持ってきた肉や毛皮、そして神である熊にお供えする物を共に「ミアンゲ」と言います。お分かりでしょうが「お土産(おみあげ)」の語源です。

神がお土産を持ってきてくれた。そのお礼にお土産を持ってお帰りいただく。その考え方は今の日本にも残っています。

またオオゲツ姫や保食神はスサノオ尊や月読命に殺され、その体から米等の穀物や蚕が生まれた。つまり食べ物や衣類は神の犠牲による贈り物と考えています。

山で狩をする。海や川で漁をする。その獲物は神からのお裾分け。だから食べ物には感謝する。食事前に「いただきます」と言うのも感謝の言葉。そう考えるのが神道だと思います。

以上、食べ物に対する考え方で神道、仏教、キリスト教の違いを述べてみました。これだけ違いがあるのですから、全て別物と私は考えています。

神仏習合やスピリチュアルな考えから全ては同じ神であるとする考えがありますが、私は本来は否と断じます。

この考えは死ぬまで変わらないと思います。多分。

 

ではでは。

コメント
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