さあ、大団円に向かってスパートです。続きます。
舞台に立つテリィ。そこに天井に吊るしてあった照明器具が落ちて来る。スザナが察知し、身を持ってテリィを庇う。そして大事故に。
スザナは片足を切断。女優としての夢は断たれた。その上、テリィの心はスザナには向いていない事を知り、自殺を企てるも未遂に終わる。
そうなったら人としてテリィはスザナに一生を捧げなければならない。スザナはテリィの命を救う代わりに夢も片足も失った。テリィはその償いをする義務がある。当然、キャンディとは別れなければならない。
キャンディも当然、テリィから身を引く。自分の恋愛を優先するのは人として許されない。
私としては、それでキャンディは恋愛を諦め、アードレー家の資産を当てにして、二代目ポニーの家園長として孤児の幸せの為にポニーの家を守ったとさ。メデタシ、メデタシで終わるのが理想ですが、キャンディは多情な女性なんですよね。困った事に。色々男関係でやらかしているし。
だから男無しでは生きて行けない。それで初恋相手である初代・丘の上の王子様のアルバートと結ばれる。実の父親とも知らずに。アルバートの悪の微笑みに気付かずに。
まっ、最後は完全にホラーで完ですわね。こりゃ。
私、キャンディは聖母マリアだと言いました。でも、聖婚で考えると結婚前に初恋の相手を忘れて他の男に走った。そうであるなら娼婦マリア。つまりマグダラのマリアの性格を現していると思います。
不思議に思いませんか。イエス・キリストのストーリーに出て来る女性がマリアだらけなのを。
イエスは産まれる前から神です。そして聖母マリアから産まれた。つまり聖母マリアはイエスの妻でもある。それを示す為にイエスの周りにはマリアが集う。これも聖婚の特徴と言えます。
つまりキャンディは娼婦マリア、マグダラのマリアから神であるアルバートと結ばれる事で、二代目聖母マリアに昇格したと言えます。
究極の聖婚です。自分の父親と結ばれて娘なのに妻となったのですから。
私としてはウイリアムも神だから娘・ローズマリーと結ばれて神のアルバートを産む。そしてアルバートも自分の娘であるキャンディと結ばれるとした方が、ストーリー的に自然かなと思いはしましたが。
後日談の小説でテリィと暮していたスザナが亡くなったとして、新たな伏線と言うか暈しを噛まして来ましたが、アルバートは神。人間のテリィが敵う相手ではない。アルバートとキャンディが結ばれる結末に揺るぎは無いと思います。以上です。
どうです、私の考えた「キャンディ・キャンディ」の筋書きは。どん引きでしょ。
全ての伏線を肯定し、出来事を仕組まれた事とした場合、どうしてもこのストーリーに辿り付くと思います。
当然、こんなストーリーでは少女漫画雑誌「なかよし」には連載出来ません。私が編集者でも「何すんな」と成ります。だから真実に繫がる伏線を残しながらも暈し捲くったのだと思います。
原作者としては当然不本意です。其れと暈しは漫画家の方でも考えた部分はあると思います。だから後々、著作権で原作者と漫画家が争う事になった。
若しくは、私の様な結論を出す輩の出現を防ぐ為に、態と争ってリメークを出させない様にしたのかも知れませんね。
「キャンディ・キャンディ」は漫画もアニメも大ヒットしました。でもね、人間ってそんなに天才はいないもんです。1から創造するのは至難の業。
だからイエスのモデルの一人と私が考えている、ギリシャ神話のアドニスとアフロディーテのストーリやイエスのストーリーを基盤にして、連載当時大ブームだった横溝正史の小説をエッセンスとしてぶっ掛けたのだと私は勘繰っています。
横溝正史の小説のテーマは血、血縁、血脈。特に「悪魔の手毬歌」、「悪魔が来たりて笛を吹く」、そして最終話の「病院坂の首くくりの家」は近親相姦をテーマにしている。其れをバレない様に裏返しにしてストーリーを構築したのだと思います。
以上、私が考えた「キャンディ・キャンディ」の真相でした。こんなに長くなるとは思いませんでした。
最後に連載時からの「キャンディ・キャンディ」のファンの皆さん。昔の純粋な乙女心を弄ぶ様な事を書いて済みません。
そして原作者の水木杏子先生、漫画家のいがらしゆみこ先生。間違っていたら御免なさい。
ではでは。
ツインとか要所要所は説得力がありました。
最後に誰と結婚したか…
漫画が終了して40年以上経つのに、激しく論争されています。
漫画全9巻を読んで、恋人らしいのは、テリィだけなんですよ。
キャンディが誰の子であろうと、最後は、テリィです!!(完)
ラストで全てを読者に把握させる。じゃないと読者は何時までもストーリーが完結しない。それはチョッと無責任かなと思います。
だからと言って後日談のストーリーを出すのも、作家としてどうかと思います。それでそれで商業的に成功したのは認めますが。
私はそっちの方面は疎いのですが、スザナが死んだからと言って、元カノのキャンディの元に戻るのはスザナの霊性を踏み躙る行為の様に思えます。
そう思うのは私が子供の考えだからでしょうね。
大人なら割り切れる。だから後日談でスザナの死を明かした。昔の読者が大人になって理解してくれると思って。
私はそんな大人の割り切りは、このストーリーには必要無かったと思います。読者も再び読んで子供の気持ちに戻らせるべき。そのままにして置くべきだったと思います。
後日談を書くなら、途中まででも伏線回収せよと思います。
テリィは最後までスザナを愛せなかった…キャンディだけ…残酷ですね。
恐らく、テリィが作者の予想を遥かに超える人気キャラになり、
キャンディ一筋でないと許されない状況になったかと。
当初の案では、役者として成功し、相手役の美人女優に心変わりした、
という単純な話だったかもしれません。
…永遠に明かされないんですよね、罪作りです。
最後に、ここまで詳しく書いていただき、ありがとうございます。
指摘されて横溝正史的な要素もありそうに感じました。
テリィ、テリウスの意味を調べたら、「髪の長い人」と出て来ました。
何の事はない。韓国で「キャンディ・キャンディ」が大人気となり、髪の長い男をテリィと呼ぶようになったみたいです。
テリィはアンソニーを正反対にした人物。その対比で人気に成ったのでしょうね。
当時の少女漫画のセオリーですが、頭も良くなく性格も突飛。ルックスにもさほど恵まれていないヒロインが、何故かモテまくると言うのが王道でした。
金持ちの子・アンソニー、スターのテリィに愛されるも、どちらとも破局する。これはヒロインに感情移入する読者にはたまらないポイントだと思います。
これは今も変わっていないみたいですね。
超ド級の男子たちにモテまくる、私にも起こり得る、
と感じながら、カタルシスを得るんですよね…
話としては受けないでしょうが、現実には、
舞台照明が落ちて片足切断をせずとも、その前に、
テリィも一流の舞台関係者に囲まれ、女優か、
才能のある脚本家の卵の女性とかと、
二番目の恋に発展し、キャンディはいい思い出になり、
キャンディも徐々に諦め、手近な、テリィより凡庸だけど、
気持ちの平らな男性と…となると、全く受けないですね(笑)
谷崎潤一郎作の「春琴抄」だと思いますが、山口百恵・三浦友和の映画で、失明しているヒロインと同じ苦しみを味わう為に、目を針で刺して失明するシーンがありました。愛とはそこまでしなければならないのかと、子供心にも大変ショックを受けました。。
「愛と誠」や「赤いシリーズ」もそうですが、そう言う純愛ドラマが当たり前の世代ですので、死んだからって直ぐに次に乗り換えるストーリーは何て薄情なのだと思います。
だからキャンディと言うキャラクターが好きではないのですが、最後はスザナの為に引き下がった。それが唯一の救いだったと思います。
スザナが亡くなったからと言って、またくっ付いて欲くはないし、出来ればアンソニー殉じて一生独身を通して欲しい。そう考える時代の漫画なので、テリィとはありえないなと思います。
キャンディは恋愛で「あしたのジョー」同様燃え尽きたのですから、二代目ポニーの家園長として独り身を通す。それが一番納得出来るラストだと思います。