ヌマンタの書斎

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親鸞和尚に八つ当たり

2008-02-06 17:29:52 | 社会・政治・一般
高校の日本史の教科書だったと思う。親鸞の項目に、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土に迎えられると唱えて信者の数を増やしたとの記述に驚き呆れた。そんな馬鹿な話があるかと憤慨したくらいだ。

そりゃ、農民は忙しく、悠長に修行なんぞ出来るわけないのは分る。分るけど、短い念仏唱えるだけでいいなんて、あまりに安易すぎると考えた。胡散臭いとさえ思ったぐらいだ。

しかし、今にして思うと、私の思慮不足だったのだろう。

幼少時から素行の悪かった私は母に連れられて、キリスト教会の集まりに参加するようになった。そこで私が教わったのが、一日の終わりに、神に対してその日あった悪い行いを自白することだった。

寝る前に、寝転んだまま目をつぶり、神を思い浮かべて祈ったものだ。「神様ゴメンナサイ。今日は校門のそばの自転車を全部ぶったおしました。」とか「むかついたので、前の席の奴の首をしめて、廊下に引きずり出して泣かせました。神様もうしませんから許してください」などと神妙に反省したものだ。

なんたって神様に詫び入れているのだから、先公やマッポには謝る必要はないと、自分に都合よく解釈していたのはともかく、悪いことは悪いと自覚していたのは事実だ。これが案外重要な意味をもっていた。

私は思いもかけず、中2の終わりには真面目に生きていかざるえなくなった。もう悪いことは出来ないと自覚を強めた。そして、あっという間に真面目な学生に変身した。これが出来たのも、今にして思えば子供の頃から「悪いことは悪い」と自覚していたからではないか。

神でも仏でもいいが、絶対者の前での全面的な服従は、人間を迷いや悩みから救済する効用があるらしい。してみると、親鸞の教える念仏仏教も、それなりに人々の救済にはなったのだろう。小難しく言うと、他力本願というらしい。

ただね、あの世での救済を約する宗教における行動規範を現実社会に当てはめてもらっては困る。南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土にいけるかもしれない。しかし、憲法9条と唱えても、永久なる平和は訪れない。

普通に常識で考えれば、平和を守るためには軍隊が必要だし、軍事条約や諜報機関も必要となる。日頃から実効性のある外交関係を築く努力あってこそ、平和は保たれると考えるはずだ。

それなのに、祈れば平和は保たれると信じ込む平和真理教徒の横行は頭が痛い。親鸞和尚の意図することとは異なることは承知しているが、それでも愚痴の一つや二つ言いたくなる。

浄土真宗とは直接は関係ないでしょうが、日本人の少なからぬ人々が、いわゆる護憲論を良いことだと思う背景には、念仏仏教の影響があるのではないかと勘ぐりたくなる。具体的な根拠のない邪推だとは思いますが、あの頑迷さにはほとほと呆れます。
コメント (4)
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