ヌマンタの書斎

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アフリカ国際会議(2)

2008-06-11 12:24:48 | 社会・政治・一般
本当のところ、アフリカへの侵略はイスラム教徒が先鞭をつけた。しかし、1千年にわたり世界の先進国として君臨したイスラムだが、アフリカへの進出は困難を極めた。

そのため、当初は貿易を通じての進出が中心だった。言い換えれば、中世のアフリカ諸王国は、先進国イスラムでさえ容易に侵略を許さぬほど強大であったとも言える。もちろん、広大な砂漠や、昼なお暗いジャングルなどの気候、地理条件がイスラム教徒に不利に働いた事実も無視できない。

それでもイスラム商人たちは、アフリカ各地へわたり、交易をして情報を集め、着々とイスラム化を推し進めた。しかし、アフリカの地は広く、自然は厳しく、その布教の道は遠く果てしなく思えた。

その頃、ユーラシア大陸の西端で、産業革命が起こり、鉄製の銃器の大量生産が可能になると、強大な武力を携えてヨーロッパ人たちが大西洋を渡った。遠く海の向うで新大陸を発見し、原住民を虐殺し、金銀財宝を簒奪し、新たなる帝国を築き上げた。

この時の虐殺は辛酸を極め、その凄惨さに疑問を抱いた宣教師らが、遠くローマ教皇に質問を投げかけた。果たして非キリスト教徒は人間や否か?と。キリスト教に改宗した原住民を下級市民として遇する一方で、改宗を認めない原住民たるインディオたちを拷問し、殺戮し、その途中でキリスト教への改宗を認めた者だけを助けた。

現地での凄惨な拷問、虐殺を知った若き宣教師たちは、当然に疑問を持たざるえなかった。この疑問はヨーロッパの地で大論争を巻き起こしたが、結果的にローマ教皇は従来の考えを改めることを避けた。新大陸でのインディオ虐殺にお墨付きを与えたことになる。

ポルトガル人やスペイン人は、殺戮に殺戮を重ねたばかりでない。新大陸に伝染病を広め、大量の病死者を出すことにも関与した。その結果、現地の農場経営、工場経営の人手が大幅に不足した。

この労働力不足を埋めたのが、アフリカ大陸の黒人たちだった。世に言う奴隷狩りである。この奴隷狩りに積極的に関ったのが、アフリカの交易商人であるイスラム教徒たちだ。彼らはイスラムに改宗をしない原住民たちを銃器で追いたて、海岸まで連れてきて、白人たちに売り渡した。

この時代、ヨーロッパ人たちはアフリカ内部には入りたがらなかったから、奴隷貿易はイスラム教徒の協力なくしてはありえないものだった。アフリカの多くの村から人間が消失し、農業生産力は激減し、畑は荒れ、文化は断絶した。強大な武力を背景に、ヨーロッパの国々が直接に侵略を開始して、植民地として分断統治を始めると、そこには支配者とその奴隷たちがいるだけとなった。

アフリカにかつてあったはずの政治的伝統、文化慣習は廃れ、小さな部族の間で細々とその切れ端が残るだけとなった。ヨーロッパの帝国主義は、アフリカから富を簒奪したばかりでない。伝統と文化を破壊尽くした。

第二次大戦後、民族独立の高まりを抑えかねたヨーロッパは、最終的には植民地支配を放り出した。残されたアフリカの人々は、残された社会資本(工場や港湾設備など)を利用、活用、保持するだけのノウハウを持ち合わせておらず、使うだけ使って放置した。

おまけに冷戦のため、東西両陣営からの援助合戦がアフリカの人々から自立心を奪った。援助をありがたがることはなく、当然の権利として開き直ったが故に、自らの努力で社会を築くことを忘れ、ないものは奪うことで折り合いをつけた。武器さえあれば、欲しいものは手に入る。そんな常識が、アフリカの社会を荒廃させた。

誰が悪いのか、何が悪いのか。(すいませんが、まだ続きます)
コメント (2)
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