死をいかに迎えるか。
若い頃は、考えもしなかった。山に海に、けっこう危ない目にあっているが、根が楽天的なので、自分が死ぬことは、まるで考えもしなかった。
ところが、突然難病に罹患して、訳もわからず入院して、気がついたら寝たきりの生活。内心、死の可能性があることに気がつきながら、敢えて無視していた。なるべく考えないようにしていた。
でも、医師の失言から自分が死の淵をかろうじて避けえた現実を知ってしまった深夜の透析室。死がすぐそばにあった事実が、私を心底怯えさせた。
おかしなもので、既に危険な状態は脱したと聞いたのだから安心していれば良いのだが、今まで死を考えていなかったツケが一気にきた。もう、自分の死のことしか考えられなかった。
もし、身体が動けるなら、逃げ出していただろう。ところが、衰弱して寝たきりの状態であったので、逃げ出すことも叶わない。自分がこのまま、寝たきりの状態で死ぬことを想像することを止められない。
もう大丈夫だと論理的に考えても、死の冷たさが足元から這い上がってくる。胃のあたりが固くしこり、首筋が固まっているのが分る。自分がこれほど臆病であったとは知らなかった。過剰なストレスから翌朝には、胃潰瘍になっていた。
原因は分っている。死に対する覚悟が出来ていなかったからだ。だから慌てふためいた。当時23歳、自分の死なんざ、まったく考えもしなかった。だから突然に死が足元にあったことに動揺を隠せなかった。
あれから23年たった。完全に治ることはなく、小康状態を保ちながら、日々暢気に生きている。暢気ではあるが、死の恐浮Yれたわけではない。多分、もうパニックに襲われることはないと思う。
さりとて、余裕をもって泰然と死を受け入れる覚悟までは出来ていない。死と、どのように対峙すべきなのか、今はまだ結論は出ていない。いかに死ぬかは、いかに生きるかと裏表の関係にある。容易に回答を出せるものではないのは分っている。だからこそ、迷い戸惑う。
表題の本の著者は、お寺の僧侶でもある。死に対峙する人生の終局を描いたら、当代随一ではないかと私は考えている。他にも、死に直面した人間のありかたを書いた本が何冊もあるが、私は初めて読んだこの本の印象が強い。人生が死という大海に注ぎ込む川の流れであるならば、その舳先を穏やかな水路に向けたいと思う。
これまで必死で、無我夢中で生きてきたのだから、せめてその最後は穏やかに迎えたい。浮き沈みというか、陰陽の濃い人生だと思っているので、せめて最後は静かに終えたい。そのためには、日頃から如何に生きるか、すなわち如何に死ぬかを考えておくべきだと思う。あたふたと死を騒ぎ立てる醜態だけはみせたくないものだ。
若い頃は、考えもしなかった。山に海に、けっこう危ない目にあっているが、根が楽天的なので、自分が死ぬことは、まるで考えもしなかった。
ところが、突然難病に罹患して、訳もわからず入院して、気がついたら寝たきりの生活。内心、死の可能性があることに気がつきながら、敢えて無視していた。なるべく考えないようにしていた。
でも、医師の失言から自分が死の淵をかろうじて避けえた現実を知ってしまった深夜の透析室。死がすぐそばにあった事実が、私を心底怯えさせた。
おかしなもので、既に危険な状態は脱したと聞いたのだから安心していれば良いのだが、今まで死を考えていなかったツケが一気にきた。もう、自分の死のことしか考えられなかった。
もし、身体が動けるなら、逃げ出していただろう。ところが、衰弱して寝たきりの状態であったので、逃げ出すことも叶わない。自分がこのまま、寝たきりの状態で死ぬことを想像することを止められない。
もう大丈夫だと論理的に考えても、死の冷たさが足元から這い上がってくる。胃のあたりが固くしこり、首筋が固まっているのが分る。自分がこれほど臆病であったとは知らなかった。過剰なストレスから翌朝には、胃潰瘍になっていた。
原因は分っている。死に対する覚悟が出来ていなかったからだ。だから慌てふためいた。当時23歳、自分の死なんざ、まったく考えもしなかった。だから突然に死が足元にあったことに動揺を隠せなかった。
あれから23年たった。完全に治ることはなく、小康状態を保ちながら、日々暢気に生きている。暢気ではあるが、死の恐浮Yれたわけではない。多分、もうパニックに襲われることはないと思う。
さりとて、余裕をもって泰然と死を受け入れる覚悟までは出来ていない。死と、どのように対峙すべきなのか、今はまだ結論は出ていない。いかに死ぬかは、いかに生きるかと裏表の関係にある。容易に回答を出せるものではないのは分っている。だからこそ、迷い戸惑う。
表題の本の著者は、お寺の僧侶でもある。死に対峙する人生の終局を描いたら、当代随一ではないかと私は考えている。他にも、死に直面した人間のありかたを書いた本が何冊もあるが、私は初めて読んだこの本の印象が強い。人生が死という大海に注ぎ込む川の流れであるならば、その舳先を穏やかな水路に向けたいと思う。
これまで必死で、無我夢中で生きてきたのだから、せめてその最後は穏やかに迎えたい。浮き沈みというか、陰陽の濃い人生だと思っているので、せめて最後は静かに終えたい。そのためには、日頃から如何に生きるか、すなわち如何に死ぬかを考えておくべきだと思う。あたふたと死を騒ぎ立てる醜態だけはみせたくないものだ。