小学校に入学した年の夏、車の洗車を手伝っていた。
父の自慢の赤いキャデラックに、ホースで水をぶっかけ埃を流し、洗浄液で泡だらけにしてスポンジで洗っていた。すると、横に銀色のキャデラックが止まった。降りてきたのは、白熊と見間違うばかりの白人の大男。
うちの近所は、米軍の払い下げ住宅が立ち並ぶ。まだヴェトナム戦争、真っ盛りの頃だけに、近所には白人の家庭が何軒もあった。だいたいが、2年程度で引っ越していく。また、新しいご近所さんだろう。
同じキャデラックということで、その白人は父に話しかけていた。片言ながら英語が話せた父が雑談に応じると、反対側のドアから女性が降りてきた。逆光だったので、シルエットしか見えなかったが、そのシルエットが凄かった。
つんと突き出した胸と、くびれた腰、スカートを押し上げる見事なヒップ。幼い私ですら目を奪われるシルエットに唖然として、思わずこけてボンネットの泡に顔を突っ込んでしまった。
笑い声と共にハンカチで泡を拭ってくれた女性は、日焼けした肌が輝くようなラテン系の美女だった。今風に言うならペネロペ・クロスのような褐色の美貌に目を奪われた。私が初めて接した白人でないアメリカ女性であった。
うちの近所は白人家族ばかりで、黒人はおろかラテン系もいなかったので少々驚いた。今にして思うと、ラテンというかスペインかポルトガルのような地中海系の風貌だった。すぐに立ち去ったが、車の後席に子供がいるのに気がついた。アア、またも縄張り争いの季節が始まる。
狭い遊び場を巡って、毎年夏から秋にかけて白人の子供たちと喧嘩をするのが慣習だった。後席にいた少し肌が褐色がかった子供とも、すぐにやり合うこととなった。これがまた強烈な喧嘩をするガキだった。野良猫が暴れるような喧嘩をする子で、小柄ながらも強敵だった。この年は縄張りを減らす羽目になったが、その一因がこの薄茶の暴れ猫野郎だった。
季節はめぐり、クリスマスのバザーが始まった。教会の裏の会場に行くと、あの褐色の美貌のママさんが居た。よく見ると同じような肌色の人たちとグループを作っていた。黒人の人たちも同様に集まっている。一番数の多い白人のグループとは、微妙に距離を置いているのが不思議だった。挨拶はするのに、すぐに離れるのが見て取れた。
別に敵意とか緊迫感は感じなかったが、教会の中で一緒に賛美歌を歌っていた時のような一体感は、まるで感じられなかったことはよく覚えている。バザーの賑わいとは裏腹に、場所ごとに空気が固まるような不思議な雰囲気があった。ただ、あの褐色の美貌のママさんが歩きまわると、その空気が微妙にざわめくのが分った。男性は目を惹き付けられ、女性は鋭い視線をはなつのが、子供の私にも感じ取れた。
当時は、その現象が美貌に根ざすのか、肌の色が引き起こすのか分らなかった。多分、両方の相乗効果だったのだろう。幼い私ですら、関心を惹き付ける美貌というものは、大人たちには相当な脅威だったのだろう。表向き、そのことが話題になることなないだろうが、その分陰にこもるのだろうと推測できる。
私は教会のなかを別にすれば、外人とはほとんど交流はなかった。唯一子供同士の喧嘩だけが、外人との接触する機会であった。そんな私でも、肌の色の違いが微妙に影を落とすのは気がついていた。あの薄茶色の暴れ猫野郎も、いつのまにやら白人の子のグループから離れていた。多分、隣町のラテン系の子供たちと一緒になったのだと思う。
表題の本は、ホラー小説の香りは漂うが、中身は時代小説です。17世紀のイギリス植民地であるアメリカの南部の開拓村での「魔女狩り」を舞台としています。褐色の美貌ゆえに魔女の烙印を押された女性の無実を信じる、若き書記官の奮闘ぶりが描かれています。
若かりし頃のマキャモンの疾走感は失われていますが、そのかわりにアメリカ南部独特の雰囲気を濃厚に描き出し、ホラーの雰囲気をかもし出すことに成功しています。ホラー脱却宣言をしてから十数年、マキャモンの方向性がはっきりと見えてきたという意味でも興味深い作品です。
父の自慢の赤いキャデラックに、ホースで水をぶっかけ埃を流し、洗浄液で泡だらけにしてスポンジで洗っていた。すると、横に銀色のキャデラックが止まった。降りてきたのは、白熊と見間違うばかりの白人の大男。
うちの近所は、米軍の払い下げ住宅が立ち並ぶ。まだヴェトナム戦争、真っ盛りの頃だけに、近所には白人の家庭が何軒もあった。だいたいが、2年程度で引っ越していく。また、新しいご近所さんだろう。
同じキャデラックということで、その白人は父に話しかけていた。片言ながら英語が話せた父が雑談に応じると、反対側のドアから女性が降りてきた。逆光だったので、シルエットしか見えなかったが、そのシルエットが凄かった。
つんと突き出した胸と、くびれた腰、スカートを押し上げる見事なヒップ。幼い私ですら目を奪われるシルエットに唖然として、思わずこけてボンネットの泡に顔を突っ込んでしまった。
笑い声と共にハンカチで泡を拭ってくれた女性は、日焼けした肌が輝くようなラテン系の美女だった。今風に言うならペネロペ・クロスのような褐色の美貌に目を奪われた。私が初めて接した白人でないアメリカ女性であった。
うちの近所は白人家族ばかりで、黒人はおろかラテン系もいなかったので少々驚いた。今にして思うと、ラテンというかスペインかポルトガルのような地中海系の風貌だった。すぐに立ち去ったが、車の後席に子供がいるのに気がついた。アア、またも縄張り争いの季節が始まる。
狭い遊び場を巡って、毎年夏から秋にかけて白人の子供たちと喧嘩をするのが慣習だった。後席にいた少し肌が褐色がかった子供とも、すぐにやり合うこととなった。これがまた強烈な喧嘩をするガキだった。野良猫が暴れるような喧嘩をする子で、小柄ながらも強敵だった。この年は縄張りを減らす羽目になったが、その一因がこの薄茶の暴れ猫野郎だった。
季節はめぐり、クリスマスのバザーが始まった。教会の裏の会場に行くと、あの褐色の美貌のママさんが居た。よく見ると同じような肌色の人たちとグループを作っていた。黒人の人たちも同様に集まっている。一番数の多い白人のグループとは、微妙に距離を置いているのが不思議だった。挨拶はするのに、すぐに離れるのが見て取れた。
別に敵意とか緊迫感は感じなかったが、教会の中で一緒に賛美歌を歌っていた時のような一体感は、まるで感じられなかったことはよく覚えている。バザーの賑わいとは裏腹に、場所ごとに空気が固まるような不思議な雰囲気があった。ただ、あの褐色の美貌のママさんが歩きまわると、その空気が微妙にざわめくのが分った。男性は目を惹き付けられ、女性は鋭い視線をはなつのが、子供の私にも感じ取れた。
当時は、その現象が美貌に根ざすのか、肌の色が引き起こすのか分らなかった。多分、両方の相乗効果だったのだろう。幼い私ですら、関心を惹き付ける美貌というものは、大人たちには相当な脅威だったのだろう。表向き、そのことが話題になることなないだろうが、その分陰にこもるのだろうと推測できる。
私は教会のなかを別にすれば、外人とはほとんど交流はなかった。唯一子供同士の喧嘩だけが、外人との接触する機会であった。そんな私でも、肌の色の違いが微妙に影を落とすのは気がついていた。あの薄茶色の暴れ猫野郎も、いつのまにやら白人の子のグループから離れていた。多分、隣町のラテン系の子供たちと一緒になったのだと思う。
表題の本は、ホラー小説の香りは漂うが、中身は時代小説です。17世紀のイギリス植民地であるアメリカの南部の開拓村での「魔女狩り」を舞台としています。褐色の美貌ゆえに魔女の烙印を押された女性の無実を信じる、若き書記官の奮闘ぶりが描かれています。
若かりし頃のマキャモンの疾走感は失われていますが、そのかわりにアメリカ南部独特の雰囲気を濃厚に描き出し、ホラーの雰囲気をかもし出すことに成功しています。ホラー脱却宣言をしてから十数年、マキャモンの方向性がはっきりと見えてきたという意味でも興味深い作品です。