ヌマンタの書斎

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白き瓶ー小説・長塚節 藤沢周平

2015-04-28 12:05:00 | 

私はそそっかしい。

それは読書も同様で、物語の流れを優先した読み方をするため、一つ一つの文章を吟味した読書は滅多にしない。だから読むのは早いが、案外と細かいところは把握していないことはよくある。

ただ、気に入った作品は繰り返し読む癖があるので、そのような作品だと詳細にわたり記憶に刻まれる。だが、そうでない作品だとストーリーを覚えていればマシなほうで、内容すら忘れていることがある。

だから熟読しなければならないような文章は苦手であった。好きな作家ではあるが、開高健のような硬質な文章は読むのに時間がかかる以上に、読むことに普段以上に疲弊する。

また、このストーリーを追うことを優先した読書癖は、詩文を苦手としてしまった。実際、詩を読むのは苦痛に近く、小学生の頃はほとんど読まなかった。中学になって、異常なほど本を読むようになっても、詩にはさっぱり関心を持てずにいた。

唯一の例外は、漢詩であったが、これにはストーリーが感じ取れたので読めた。ただ、それでも本当の意味での詩の楽しさを分かってはいなかった。そんな私が少し変わったのは、高校の国語の授業での正岡子規の俳句を知ってからであった。

教科書というものは、けっこう良く出来ていて、私は教科書から幾多の名作、名作家を学んでいる。文法の勉強は嫌いであったが、教科書で知ったことを契機として、私の読書は大きく拡がっている。

写実を大切にした正岡子規であるが、私はどちらかといえば万葉はあまり好まず、新古今は華美に過ぎ、古今集が一番感性にあったように思う。もっとも、それは多感にして未熟、知識過剰にして知性不完全な十代の頃のものであり、当時と今では大きく変わっているはず。

まだ、ほとんど手を出してないが、いずれは古典の再読にも取り組みたいと思っている。

十代の頃、なにが面白いのだと疑問に思っていたのが、表題の作品の主人公である長塚節である。写実性に溢れた俳句はいざ知らず、小説「土」は退屈に過ぎて、読むのが苦痛だったほどだ。以来、関心を失くしていた作家である。

その長塚節を改めて取り上げたのが、時代小説の大家である藤沢周平である。この練達の作家の手にかかると、私が退屈に感じた長塚節の人間像が、生き生きと甦ってくる。

もし長塚節が若くして死すことなく、人生を積み重ねてきたのなら、どんな小説を書いたのだろう。そう思わせた藤沢周平の手腕に感服でした。ただし、一言加えて置くと、時代小説での藤沢の読みやすい文を期待すると裏切られます。むしろドキュメンタリーに近いほどの、回り道の多い文章です。

そして、この読みにくい文章ゆえに、歌人であり作家でもある長塚節の実像が浮かび上がってくるのです。なかなかの逸品だと思いますよ。

コメント
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