毒と薬は紙一重。
良く知られていることだが、薬を使うのは人類だけではない。野生動物も、薬草などの薬効は知っていて、体調が悪い時などに、日ごろ食べない草木を食べる。それを観察した人間が、その薬効を知ったのが、最初の薬だとされている。
だが、薬草から成分を抽出して、より薬効を高めた使い方をするのは人間だけだ。いくら猫がマタタビを好きだからといって、一日中マタタビに呆けることはない。しかし、人間は、その薬効を高める手段を知っているが故に、その効果に酔い痴れてしまうことがある。
特に科学技術が飛躍的に発展した20世紀以降、人類はその高度な技術を用いて、より薬効を高めた薬を造ることに成功した。おかげで、かつては不治の病とされた病気さえ治療することができた。
だが、なかにはその薬の成分が効くことは分かっていても、何故効くのかが分からない薬も少なくない。その多くは、脳神経に効くのだが、何故効くのかの仕組みが未解明のままである。
薬だけではなく、現在は使われなくなったロボトミー手術や、限定的に使われる電気ショック療法なども、その仕組みは全て解明されている訳ではない。だが、仕組みは分からなくても、使うことは出来る。
それが恐ろしい。
しかし、現実には、多くの薬物が、完全に解明される前に実際に使用されている。南米やアフリカなどの密林で発見された未知の薬効性のある植物やバクテリアから、新しい薬物が生み出されている。
これらは薬品として正式な認証を受ける前、なぜか市場に出回ることがある。もちろん正式な薬局、医師とは無縁であり、酒場やクラブなどの片隅で、いつのまにやら取引されている。
そんな噂話を耳にしたのは、かれこれ20年以上前だ。当時は、わりと気軽に海外旅行に行っていたので、旅先で情報交換をすることが多く、私は危ない薬物の話を聞いたのも、乗継のため時間潰しをしていたヒースロー空港でのカウンター・バーでのことであった。
のんびりとギネス・ビールを飲んでいたら、隣に座ってきた長髪の男性が声をかけてきた。日本人のようだが、かつて流行したヒッピーのような長髪と、あまり洗濯していないような服装が、私の脳内警報器にスイッチを入れた。
どうでもいい世間話はともかく、彼はさっそく私にタバコをねだってきた。私がタバコを吸わないと言うと、大げさに驚き、ではグラスならどう?と言ってきた。
やっぱり、か。
グラスが大麻の隠語であることぐらいは知っていた。それもやらないと、やんわりと断る。すると、今後は気分が爽快になる錠剤を奨めてきた。これは注射ではないし、製薬会社の作ったものだから安心ですよと言ってくる。
丁寧に断ると、執拗に一度くらい体験してみるべきだと進めてくるので、声のトーンを落として少し怒り気味に威嚇して退散させた。おかげで、巨漢の白人店員から睨まれる羽目に陥ったが、警察の世話になるよりマシだ。
すると、中年の女性が声をかけてきた。たしか、行きの飛行機のなかで近くに座っていた人だと思いだした。彼女が、よく断りましたねと言うので、あんな危ない話には乗れませんよと答えると、それが正解だと肯いてくれた。
その女性から、日本人がよく騙される典型的なパターンを幾つか教えてもらった。旅先での不安に付け込まれることが多いので、堂々としているのが一番だとの助言が、一番気に入った。
私もそう思うからだ。一人旅が多い私は、旅先でつけこまれないために、地図を暗記したり、ありきたりの服装で地味にみせたりして工夫をしている。たとえ、見知らぬ街でも、堂々と歩いていると、変んな輩に絡まれることも滅多にない。
逆に不安そうにしていると、怪しい輩が近寄ってくる。これは、国内旅行でも同様だと思っている。いや、日常生活においても通用することだと確信している。
話を戻すと、その時の会話で、日本では売られていない薬物が、こちらでは売られており、決して安易な気持ちで手を出さないようにと釘を刺された。たしかに頷ける話であったと思う。
彼女の話では、薦められた薬物を服用して、良い気持ちになり、翌朝気が付いたら身ぐるみ剥がされた日本人旅行者は、決して珍しくないそうである。いくら強い意志を持っていても、脳に直接作用する薬物に抵抗できるはずはない。
暴力や威嚇に抵抗できても、薬物による意識喪失では、抗いようがない。単純な暴力以上に警戒すべきだと思う。まして、その危ない薬が、医師の協力を得たものであれば、普通の人なんざひとたまりもないはずだ。
表題の作品は、目が覚めたら記憶を失っていた男女の、記憶を求める探索と、失踪した女子高校生を探す相談員の話が錯綜しながら、次第に邪悪な事件の真相が見えてくるといった複雑な構成のミステリーです。
さすが、ミステリー界の王女様こと、宮部みゆきの手腕だと感心しきり。仕事が忙しくて、ストレスがたまりがちな時期は、こんなミステリーで気分転換を図るのも良いと思うのです。