私がこの本は面白いと評価する基準の一つは、どれだけ夢中になれるか、である。
具体的に云えば、電車での読書中に降りるべき駅を通過するほどの夢中さ、である。
イイ年して、降りる駅を忘れるほどに読書に夢中なのもどうかと思うが、そんな作品は滅多にない。だからこそ、この本は面白いと断言できる。
ただ、ミステリー好きの人だと、犯人に気が付くのは早いと思う。実際、私は上巻で当たりを付けた。でも、そんなことはお構いなしで、この本は楽しめた。
しかし、大菩薩事件を舞台の一つに設定されたことには、嬉しさ半分、不快さ半分ってところだ。
私は小学生の頃には、既に共産主義革命に強い憧れを抱いていたので、もちろん大菩薩事件のことは知っていた。知ってはいたが、知りたくもないことは、敢えて知らずに済ませていた。
日本のTVも新聞も、この大菩薩事件を積極的に報道することは稀だ。知らない人も多いと思う。これは当時の赤軍の一分派が東京の西方向、山梨県の大菩薩嶺での軍事練習をしていたところを、公安警察が察知して銃撃戦まで起きた戦後の大事件であった。
日本では共産党は、平和的革命、すなわち選挙で多数派を握り政権を取っての穏やかな革命を目指すとされている。わたしゃ、大きな声で叫びたい。それは半分は本当で、半分はウソだと。
本来、マルクス主義を掲げる共産党は、ソ連で開催されたインターナショナル宣言に基づき、武力革命を世界で起こすことを目的としていた。ただ、穏健な革命を目指す共産主義者もいたが、本来の共産主義は武力革命こそが本質であった。
しかし、日本では穏健な話し合い志向が強く、日本共産党内部でも多数派はこの穏健派であった。しかし、共産党はプロレタリア独裁を目指す政党であり、その党内運営は断じて民主的ではなかった。
なにせ党の運営は、武力革命の信奉者である宮本謙治に握られていた。だから60年安保闘争に敗れ、穏健派路線に転向のそぶりをみせながらも、その下部組織である民青や、全学連にはまだまだ武力革命支持派がかなり居た。
その武力革命支持派に大ダメージを与えたのが、この大菩薩事件であった。これは武力革命派にとって致命的とも云える失敗であった。この後、日本共産党の武力革命派は二分される。
すなわち今は時機ではないと諦めて潜伏した人たちと、共産党とは袂を分かち、テロリストとして生きる道を選んだ人たちとに。私が共産党の若手の人たちと知り合ったのは、まさにこの分裂期であり、私なんぞは未来の革命戦士の卵だと言われたこともあった。
しかし全体としては、武力革命の炎は消えつつあり、それを憮然たる想いで見つめていた若者たちは、やがてシラケ世代と呼ばれるようになる。私に共産主義が実現するはずの平等で正当な世界の夢を語ってくれた若者たちは、次第に姿を消してしまっていた。
私は失望から共産党の人たちとは次第に距離を置くようになり、登山と受験を理由に立ち去ってしまった。だから、その大きな転機となった大菩薩事件自体が、公安のスパイが潜り込んでいたが故に起きたことを直視してこなかった。
いや、この公安のスパイ潜伏の噂は、民青の若者たちにも深い亀裂を残したとみるべきだろう。本来、同じ夢を共有する同志であるはずが、互いに疑心を抱きつつある不健全な状況を、なんともいえない淀んだ空気だと感じていた。
変な話だが、当時十代前半であった私が、既に二十歳を過ぎている若者たちから重宝されたのは、私がスパイである可能性がほとんどなかったからではないかと思う。もっとも、その私はスパイが潜んでいるかもしれない現実を、見て見ぬふりしていた。
スパイなんているはずないと信じ込みたいだけの子供が当時の私であった。だから本書を読んだ時、その部分だけは、正直ちょっと嫌だった。まぁ、これは私の我儘に過ぎないけど。
読了後、私が思ったのは、やっぱり私は警察が嫌いだってこと。その必要性は認めているし、組織の論理も分からないほど幼くはない。でも、やはり好きにはなれないな。
そんな私の私情とは無関係に、本書は面白い。それだけは断言できます。未読であったら是非、手に取って欲しいと思います。