澄みきった青空を背景に葉を落とした街路樹のシルエットが尖ってみえる。
冬の風物詩ではあるが、正直私は少し怖いと思っている。冬の時期は草木が眠る時期でもある。葉を落として幹と枝だけになった街路樹には静けさと共に、自らの生きる意志を無言で伝えているかのごとく威圧感を感じる。
私が植物に関して、少し捻くれた印象を持つのは、学生の頃の藪山登山の経験からだ。大学のWV部では冬季の雪山登山は原則禁止であったので、冬の時期は低山の藪山を登ることが多かった。
これは案外と気持ちの良い登山で、夏場ならば生い茂る草木の藪が強固すぎて、とても登れない藪道でも冬場ならば登れる。山稜にたどり着けば、冬の綺麗な空と黄褐色の山稜の対比が美しい。
もちろん気温は低く、風も冷たいが、枯草の藪に入ればほのかに暖かく感じる。ただ、その時の私は一種の征服感を感じつつ、周囲の草木から敵視されているかのような錯覚を覚えることがままあった。
今は大人しくしてやるが、いずれは許してやらないぞ。そんな囁きを草木が呟いているような気がしたことがある。実際、藪山の道を登る時は、刃渡り20センチほどの鉈を振り回し、邪魔な枝葉を刈り払いながら登る。
自分で道を切り開く感覚はけっこう好きで、私は好んで藪山でのトップを張りたがった。そんな登山の後、夜眠るとなんとなく草木の恨み節が聴こえてくるような気がしたことがある。
もちろん錯覚というか妄想であり、実際に草木の声など聴いたことはない。ただ、寝苦しさというか、目が覚めても爽快な朝にはならない違和感はあったように思う。
そんな経験があるので、私は草木にも「生きる意志」はあると信じている。
だからこそ内心、密かに疑わしく思っているのがヴェジタリストとかヴィーガンとか呼ばれている人たちだ。別に何を食べようと、それは個人の自由だと思うから、彼らの食生活を邪魔する気はない。
でも、彼らの主張を肯定的に捉えることは無理だ。動物が可哀そうと思うのは勝手だが、では植物は可哀そうではないのか。草木にも「生きる意志」はあると信じている私からすると、植物の生きる意志を根絶やしにしてそれを食べることも十分残酷だと思う。
地球上の生きとし生きるものは、すべて他者の命を貪って生きている。それが太古よりの宿命であり、それこそが自然の意志だとも思っている。
別に肉を好もうが、野菜が好きだろうが、それは個人の自由だ。ただ人間の口の歯の構造を分析してみれば、概ね肉食3割、植物食7割が妥当なのだろうと考えている。人間はそのような食生活をして生きてきたなによりの証拠だと思う。
とはいえ、この考えを他者に強要する気はない。多分、年齢や環境によっても多少差異はあるだろうし、好きなものを美味しく食べることは、なによりも幸せなことだと思う。
それゆえに、私は菜食主義やらヴィーガンやらを強要されるのは大嫌い。ついでに云えば、無農薬信仰やら無添加信仰にも距離を置きたい。だって現実的ではないし、今さらやっても大して意味はないと思うから。
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