ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「デルフィニア戦記」 茅田砂胡

2007-02-22 14:23:55 | 
小説の面白さの一つに、登場人物たちの絶妙な会話があると思う。

私が名人だと思うのは、田中芳樹だ。ロイエンタールとミッターマイヤー(銀英伝)、ダリューンとナルサス(アルスラーン戦記)、始と続(創竜伝)などにみられる会話の面白さは、いつだって私を笑わせ、頷かせ、和ませてくれる。

最近、読んで感心したのが表題の作品だ。この作者は巧い!と思った。登場人物たちの会話の面白さに引き釣り込まれた。主役はグリンダ王女と、その取り巻き(?)連中だ。この王女、一応ヒロインだと思うが、これほど色気のないヒロインも珍しい。お転婆の域を超越した暴れっぷりが気持ちいい。全18巻もある長編だが、飽きずに読める。茅田砂胡のデビュー作だというから、この作者、なかなかに侮れない。

唯一、難点は表紙のイラストが少女漫画チックなところか。中年男性の私には、けっこう辛かったゾ。まあ、西尾維新も似たようなものだった。ライト・ノベルという奴は、どうしてもイラストに拘るから、これは致し方ないのだろう。

イラストも魅力のうちなのが、ライト・ノベルの特徴だそうだが、そのせいで文壇の世界での評価は低い。いい大人が手を出しにくい雰囲気があるのは事実だと思う。昨年大ヒットした「涼宮ハルヒ・シリーズ」など、さすがの私も手を出しかねている。多分、面白いのだろうが、あのどんぐり眼のイラストを見ると、それを手に取り本屋のカウンターに並ぶ勇気がない。正直、ヌード写真集のほうがまだマシだ。(ヘンかなあ~?)

私としては本の中味が面白ければ、それで良し。ただ・・・もしかして、この作者、宝塚のファンなのだろうか?やけに美形の登場人物が多い気がした。私の僻みかしらん?
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「Cat Shit One」 小林源文

2007-02-21 14:49:06 | 
鳥獣戯画のベトナム戦争版とでも言ったらよいのか?

なにせ、アメリカ兵は「ウサギ」ちゃんで表されている。ベトナム人はネコで、中国人がパンダ、ロシアは熊で、韓国兵は犬、日本人がサル、オーストラリア兵はカンガルーなのだ。自然とコミカルな雰囲気が漂ってしまう。あれ?

本来、ベトナム戦争は悲惨な戦いであったはずだ。むせるような湿気と、ぬかるむ大地。昼なお暗いジャングル。どこから撃たれるか分からない、誰が味方か分からない、なんのために戦っているか分らない、そんな不安に苦しんだアメリカ兵たちを描けば、当然に悲惨な場面になるはずだ。

ところが、ウサギちゃんで表現されたアメリカ兵たちに陰惨さは見られない。むしろ微笑ましさすら感じられる。漫画という表現手段は、使い方によっては怖いと、つくづく思わされた。

作者は、ミリタリー雑誌などに戦争漫画を書いていることで知られているが、ほとんどがリアルな絵柄で、憂鬱な絵柄と評したくなる。戦争を描けば、リアルであればあるほど、必然的に陰惨さが出ざるえない。決して戦争賛美の漫画家ではないと思うが、兵士たちの苦悩を描けば描くほど、筆が進まず難儀したと独白している。

ところが、兵士たちを動物に擬して描いたら、筆がスイスイ進み、作者本人が一番驚いたと後書きで書いている。そりゃ、読んだ私だって驚いた。でも違和感なく読みきってしまった。

正直、メッセージ性のある漫画ではないし、読んで深く感銘を受けるものでもない。兵士を動物に擬した以外、とりたて見るべきところもない。それなのに、それだけなのに、妙に記憶に残る不思議な漫画でした。しかし、何でアメリカ人がウサギ・・・ま、いっか。
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病腎移植に想うこと

2007-02-20 09:27:33 | 社会・政治・一般
私は難病を患った経験があります。このことは折に触れ、ここでも書いていますが、病名は明かしていません。まあ、分る人には分るのですが、説明するのが難しく、面倒でもあるので明かしていません。

でも明かさない最大の理由は、誰もが私と同じように社会復帰できているわけでもないし、治る可能性を有しているわけではないからです。現代の医学では、どうしても治らないタイプの人も少なくないのを知っているので、病名を書けずにいます。

何人か、治らないタイプの同じ難病患者を知っています。いや、知っていました。治らないことを知り、未来に希望を持てないことを知っている瞳に見つめられたことがありますか?

私は何度かあります。何度か経験しても、慣れることは出来ません。同じ病気であるのに、越える事の出来ない裂け目に引き裂かれている感があります。言葉が届かない。気持ちが通じないのです。

初めて治らないタイプの患者さんと会ったのは、やはり入院中でした。私は奇跡的に回復した珍しい患者だったのですが、どこで聞きつけたのか、その患者の母親が私を訪ねてきて、娘を励まして欲しいと言われたのがきっかけでした。

導かれて、隣の病棟へ見舞いに行ってすぐ後悔しました。あの絶望を秘めた瞳に見つめられることが、あれほど辛いものだとは知らなかった。5歳ほど離れた十代後半の娘さんでしたが、彼女は知っていた。そこが私との最大の違いでした。

私は自分が治らない可能性が高いことを知らなかった。死ぬかもしれないことすら知らなかった。だから、どんなに苦しくとも、治ることを信じていられた。治って、退院してからの未来を楽しむことが出来た。だから耐えられた。

でも、彼女は知っていた。可能性が低いことも、治療が辛いことも、そして死ぬかもしれないことも。彼女の絶望を秘めた瞳の暗い輝きは、私をパニックに追いやった。情けないことに、私は何を喋ったか覚えていない。どのくらい、その病室にいたのかさえ覚えていない。

もう、彼女の顔も思い出せないが、一つだけ忘れられない質問があった。振り絞るような、か細い声で一言。

「どうやって、お兄さんは治ったの?」

私はなんと返事したか覚えていない。記憶がポッカリ抜け落ちている。希望をなくした病人の言葉は、重く、厳しく、切ない。

現在、新聞などで宇和島の万波医師による病腎移植が問題になっています。どうやら原則禁止となりそうな気配ですが、覚えておいて欲しい。希望をなくした病人は、ただ苦しみながら死が訪れるのを待つだけだということを。たとえ、癌組織を抱えていた腎臓だって、希望の欠片はあるのです。その希望にすがりつきたい病人は、決して少なくないのです。

結果的には失敗するかもしれない病腎移植を禁止することは、私からすると医師が失敗を恐れて責任回避している姿そのものです。100%の治療なんて欲していない。失敗してもなお、挑戦する気概を持って欲しい。その気概が、希望をなくしかけた患者を救うのです。
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「孤高の人」 新田次郎

2007-02-19 12:41:07 | 
山に登れない身体となって、はや21年が過ぎた。それなのに、未だに夢に見ることがある。未練がましいと思う。思うけれど、そんな夢を見た朝は、決して不快ではない。

あれは高校2年の夏だった。北アルプスを燕岳から常念岳までの縦走の最中に、台風に襲われた。山稜の鞍部にてテントを張り、強風吹き荒れる夜を過ごした。ドーム型のテントは、風にしなり、今にも壊れそうだったが、経験上簡単には壊れないことを知っていた私は、早々に寝袋に潜り込んで寝た。

風の唸りが小さくなったのを感じて、早朝目を覚ますと、驚いたことにテントの天井が目の前にあった。どうもテントを支えるポールが折れたらしい。なんか身体が生ぬるいと思ったら、テントのなかは浸水して、私は水の中でびしょ濡れで寝ていたらしい。

テントを押し上げるように起き上がると、隅っこで一年生たちが膝を抱えて座り込んでいる。声を掛けると、憔悴した声で返事してくる。「先輩、よく眠れましたね」だと。どうやら、一晩中起きていたらしい。「起きてても、することないしな」と素っ気無く応え、テントの応急措置をやり、のんびり朝食を食べる。

雨が止んだようなので、テントを出ると、外の景色に驚いた。頭上を駆ける雨雲の切れ間から、朝の太陽がルビーのような赤い輝きをみせている。さっきまで疲労で呆然としていた一年生も、目を輝かせて、その美しい光景に見とれている。

台風一過の朝の景色ほど美しいものは、滅多にないと思う。不安な夜を過ごした焦燥感が拭われ、今日を生きる気力が沸いて来る。どんなに苦しくとも、それを耐えれば、それ以上の感動が味わえた。困難を乗り越えてこそ、得られる感動がある。それを教えてくれたのが山だった。

身体を壊す前は、会社を辞めたら、山で山小屋の番人でもしようと考えていた。表題の作品の主人公に憧れていたせいでもある。よくよく考えてみると、お喋りが好きで、単独登山などやったことのない自分には無理というか、向いてないのだろう。それでも憧れた。一人で山に対峙できる逞しさに憧れた。

今にして思うと無理だよな、と思う以前に、端から諦めている自分の弱さをつくづう実感した。弱くなったな、私。でも、その分、しぶとく、ずうずうしくなった。良いんだか、悪いんだかねえ~
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「神罰」 田中圭一

2007-02-17 13:15:09 | 
あまりにお下劣。間違っても、真面目な手塚治虫ファンは読んではいけない。

世界に冠たる日本の漫画だが、その発展における手塚治虫の貢献は計り知れない。ディズニーの映画に影響されて、漫画のコマ割りをダイナミックに代え、大人の鑑賞に耐え得る漫画を描いた彼の努力なくして、今日の漫画文化はありえなかった。

よりによって、その手塚治虫の画風を真似して、しかも手塚治虫が絶対に描かないであろう下ネタばかりを描いたのが表題の作者だ。それも、相当にお馬鹿で、下賎で、エゲツナイ漫画なのだ。

単行本の帯が秀逸だ。「ライオンキングは許せても、田中圭一は許せません、訴えます!」@手塚ルミ子。その言葉を受けての表紙で、またも手塚治虫の画風を真似したキャラに「訴えないでください」などと描いている。これだけでも、相当なギャグだと思う。

はっきり言います。読むだけ無駄。時間の無駄。感性の無駄遣い。読んでしまった私は馬鹿笑いをして、その後あまりの虚しさに脱力した覚えがあります。ここまで下劣だと、怒る気力も失せる。

興味深いのは、作者は会社勤めの真面目な社会人であること。いかにも真面目な風貌のどこに、あのようなお下劣なアイディアが入っているのか不思議で仕方ない。凄いギャップなのです。嫌だなあ~、私も見かけ真面目風で、けっこうふざけるのが好きなので、作者の心象が分らないでもない。

あの手塚だからこそ、パロディのネタにしたかったのだろう。絶対、手塚治虫が描かないと分っているからこそ、描きたかったのだろう。困った・・・共感できてしまう。

なんか癖になりそうで、他の作品は読んでいません。きっともの凄くクダラナクて、大笑い出来そうで、それが嫌で読んでいません。いや、ホント馬鹿らしく、下らない漫画です。手塚治虫を敬愛する方は、絶対に読んではなりません。

追記 表紙の裏の漫画が、またモーレツに馬鹿らしい。
コメント (7)
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