ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ひ弱なエリートたちによる税制改正

2007-09-22 14:34:56 | 経済・金融・税制
この20年、日本経済は緩やかに下り坂を降りている。

毎年、数千社が新たに設立されるが、一方それ以上の会社が倒産し、休眠状態に陥っている。かつては日本全体で400万社あるといわれた会社だが、現在は200~250万社程度であると推測できる。

正確な数が分らないのは、会社として眠っている、したがって決算も申告もしていないものが相当数あるからだ。とりわけ、2年に一回の役員改選登記が不要な有限会社は、法務局でも完全には把握していないようだ。

一昨年の商法改正は、このような状況を憂えた政府が、会社の設立を容易にして、経済の活性化を狙ったものだった。そして、その狙いはある程度成功したようだ。たしかに会社設立数は増加した。

しかし、あまりに安易な会社設立であることが少なくないようだ。私から見ると、まだまだ会社の規模に達していない個人事業者が、行政書士や司法書士に勧められて、安易に会社設立したようなケースを多々見かける。おそらく長続きしないと思う。個人でやったほうが、結果的にコストが少なくて済む場合があることを知らないようだ。

商法改正(会社法新設)には、もう一つ飴がぶら下げられていた。それが役員に対する賞与の経費算入を認めたことだった。従来は、役員に対するボーナスは、利益配分の一環とされ、その費用性を認めていなかった。しかし、国際会計基準との整合等を考えて、給与と賞与の垣根をなくした英断だったはずだ。

しかし、それに待ったをかけたのが財務省。会社設立を簡単にした以上、事業者が安易に会社を作り、社長自らに多額のボーナスを払うことによる節税を心配したらしい。ここで、とんでもない法人税法改正をやってのけた。

なんと、役員に対する給与・賞与を原則損金不算入として、一定の基準をクリアしてものだけを認める税制に変えてしまったのだ。会計とは、完全に逆行する改正でもある。

税法改正は、税法の解釈の余地が大きいことから、改正法施行後必ず通達などを出して、実務の現場で混乱しないよう手を打つのが通例だ。しかし、この役員給与税制の改正は、あまりに問題が多かった。なんと通達が出るのが大幅に遅れた。企業や会計士、税理士からの質問以上に、税務の現場に立つ税務署職員からの疑問の噴出に、当の国税局さえ悲鳴を上げた。

身内からも疑問が続出する税制改正を、なんだってやったのだろ?

一年以上たち、ようやく裏舞台の実情が覗けてきた。通常だと税制改正は、国税庁が中心に、財務省、内閣法制局といった霞ヶ関の官僚たちが作成する。しかし、自民党税調や経団連の作業部会など関係諸団体の声を聞いて、微妙に調整していくのが通例だった。

しかし、この役員給与の改正は、その外部との意見調整を省略したらしい。ほとんど不意打ち的に、改正税法に付け加え、自民党税調や税制審議会、経団連などに口を挟ませないスケジュールで、国会に提出したという。

オフレコ情報なので、情報源は明かせないが、あまりに企業の現場を無視した改正法だけに、どうやら机上の知識しかない官僚たちの一人芝居であることは、ほぼ間違いないと私も思う。

どうも現在のエリートさんたちは、自分たちの作業を外部から批判されるのを厭う傾向が甚だしいようだ。おまけにやったことに対する責任をとる必要は無いと考えているので、さっさと転勤や部署異動をして、一年後には逃げてしまう。後を任された若手たちが愚痴ること、愚痴ること。でも、数年後には同じことやるんだよね・・・

この改正税法を受けての税務調査が、この夏から始まっていますが、今のところ役員給与についてのドタバタは聞かれない。我々税理士業界は、この役員給与についての税務当局とのトラブルを警戒しているが、どうも税務署の職員たちも今のところ手を出しかねているように思われる。

予想だが、おそらくこの役員給与について揉めたら、多分裁判にまで行き着く可能性は高いと思う。たしかに法令はガチガチに固めてあり、訴訟に耐えられるよう作ったようだ。しかし、企業の実情とあまりに乖離している。高裁は分らないが、地裁レベルだと国が負ける可能性もあるように、私には思える。っつうか、税務署の職員にもそう感じている人がいるようだ。

このような稚拙な改正税法が出るようになったのは、税務署職員のレベル低下が原因ではないか、と或る税務署OBの方がぼやいていた。一理あると思うが、それ以上に思うのは、族議員の能力低下もあると思う。霞ヶ関のエリートに言いくるめられる、ボンクラ議員の増加も原因ではないか。

もっと言えば、エリートの能力低下だ。外部の人間に、せっかく作った法案の原案にケチつけられるくらい我慢しろよ。最初っから完璧なものなんて作れるわけない。欠点を見出し、修正を繰り返してこそ、よきものは作られる。最初っから100点取ろうとしなさんな。実務は試験じゃないぞ。
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「事件屋稼業」 谷口ジロー

2007-09-21 12:23:20 | 
「お前、陸に上がったら汚れたな」

探偵・深町丈太郎の学生時代の水泳部の親友に向かっての科白が、今も心に残る。繁華街の雑居ビル、歯医者の診療所の一室を間借りする、しがない私立探偵のもとに持ち込まれる事件は、どれも切ない。

そりゃあ、汚れるってもんだ。学生の時の無邪気な自分ではいられない。いられる訳がない。おばあちゃんは、男が社会に出れば7人の敵がいるもんだと、私に諭していたが、7人どころじゃないわな。

同じ黒い虫でも、カブトムシを捕まえる手口と、ゴキブリを叩き潰す手口が同じわけない。相手が卑怯な手を使ってくるなら、こちらも卑劣な手で返すのが、大人の流儀ってもんだ。清廉潔白では、大事なものは守れない。

私とて随分と汚れた。誠実さや信義を重んじ、守るべき秘密を押し隠し、主張すべき道理に声を上げ、沈黙すべき時には貝になる。それでも時には嘘をつく。方便だと強がっても、心の表面にうっすら埃が積もる不快さは、拭い去れない。

だからこそ、なのだろう。学生時代の友人たちとは、可能な限り大人の社会の汚さとは距離を置きたい。せめてこの一時だけは、学生時代に戻って、安らかに酒を飲み交わしたい。汚れちまった大人になった今こそ、学生時代の純粋さ(多少ひねくれてはいたが・・・)を思い起こさせる関係は大事にしたいと思う。

表題の作品は、週刊ギャングという大人向けのちょっとHな漫画雑誌に掲載されていたため、この作品もマイナーなものとならざる得ませんでした。しかし、探偵ものの漫画としては、大人の鑑賞に堪えうる佳作だと思います。

多分、古本屋か漫画喫茶ぐらいでしか読めないと思いますが、もし機会がありましたら是非どうぞ。
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「反撃の海峡」 ジャック・ヒギンズ

2007-09-20 09:52:25 | 
何度か書いているが、私は男女平等なんて全く信じていない。

そもそも人は皆、平等であると思っていない。男であろうと女であろうと、はたまた老人であろうと、子供であろうと優秀ならば、是非とも活用すべきだと考えている。つまり機会均等という意味での平等は信じているが、各人の能力が平等であるなんて、まったく思っていない。

そもそも権利には義務が伴う。生まれついての権利だとの主張はあるが、その権利を認めてもらうには、やはり義務の履行が伴うのが当然だと思う。

平等なのだから、男も女も同じ役割を担うべきだとの意見があるのは承知している。しかし、私は机上の空論だと思う。

私は十代の頃は、山登りに夢中だったが、男女一緒に登ることが多かった。日帰りや山小屋泊の登山では、ほとんど男女差を設ける必要はなかった。しかし、背負う荷の重量がはるかに重くなるテントを用いての長期縦走登山では、はっきりと男女に差を設けた。

例えば2週間の縦走登山だと、男子は40キロ、女子は30キロの重さになるようザックを調整した。これは体力というか、背筋力の違いが大きな要因となる。平均的にみて、背負えるザックの重量は、背筋力の三分の一程度が望ましい。運動部系のクラブに属する男子なら、背筋力は120から150キロ程度はあるから、40キロのザックを背負うのはそう大変ではない。

しかし平均的な背筋力が100キロに届かぬことが少なくない女子に、男子と同じ重さのザックを背負わせることは望ましくない。鍛えれば可能な重さだが、相対的に筋肉の少ない女性に、男子と同じ重量を負荷させるのは、むしろ全体の行動ペースを落とさざる得なくなり、不合理だったからだ。

実のところ、肉体的苦痛に対する耐性は、概ね女性のほうが高い。40キロを背負わせても、歩くペースは落ちるが耐えられる。しかし、結果として腰痛の原因になることが多く、故障を多く発生させてしまう。皮肉なことに、男子は苦痛が過ぎると、すぐ根を上げる。だから故障するほどは、頑張らない男子が多い。ところが、女性は故障するまで耐えてしまう。怪我をするために、山に行くわけではないので、これでは困る。だから背負うザックの重さに、男女差を設けた。

やはり、身体の造りが違うのだから、差を設けることが必要な場合もある。筋力は落ちることが多い女性だが、精神的な耐性は、概ね男性より高いと思っている。たとえば、吹き荒れる風雪などの困難に直面した場合、まず精神的にバテるのは、たいがいが男子からだった。

一時間で200メートル進むのがやっとの藪山でのことだ。みぞれ交じりの雨に降られ、肉体的疲労と精神的絶望を抱えて、ビバークしたことがある。サブリーダーだった私が2時間かけて、谷を下って水を汲み戻ってきた時だった。

テントに入ると、男子たちはでかい身体を丸めて落ち込んでいる。まあ、落ち込むのは無理もない。この藪を抜けるには、後3日はかかるのが明白だったからだ。周囲には人跡はなく、避難路もない。進むか戻るかの至難のコースなのだから。

ところがだ、小柄な女の子たち3人は賑やかだ。テントの奥で化粧道具を持ち出して、なにやら騒がしい。どうも、藪でお肌に傷がついたのが、気に召さない様子でリーダーに文句言っている。リーダーが苦笑しながら、なだめていた。全然落ち込んでいない。それどころか、元気一杯に半ば遭難状態を楽しんでいた。

重い荷物を持てない小柄な女の子が3人もいたので、わざわざ体力のある大柄な男子を選んだつもりだったが、結果的に強かったのは小柄な女の子たちだった。

表題の作品は、ジャック・ヒギンズお得意のDデイもの。素人女性をスパイとして送り込む英国情報部の残酷な決断は、男女平等を貪欲に活用する。戦争に勝つという目的のためなら、男だろうと女だろうと情け容赦なく使い捨てる。紳士の国イギリスの、男女平等感のありようが、透けて覗けるから怖い。

男女平等を主張するのは容易い。しかし、その結果として課せられる責務の重さも、当然に男女の差はない厳しさを覚悟する必要がある。使い捨てにされるスパイが女性である場合、その結末は悲惨である場合が多い。だからこそ、軍の命令に逆らう主人公が、冒険小説には必ず出てくるのだろう。もっとも、この作品のヒロインは、素人ながら一筋縄ではいかない女傑だ。

はっきり言うと、ヒギンズの冒険小説としては低調だと思う。それなのに記憶に残っているのは、ヒロインの素人臭い頑張りが好印象だからだ。低調なのは、悪役が悪役に徹しきれてないからだ。ヒギンズ先生、なにを迷っていたのだろう?

そんな訳で、あまりお勧めできないヒギンズ作品なのです。
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「韓国民に告ぐ」 金文学

2007-09-19 09:33:27 | 
著者は中国東北部で生まれ育った朝鮮族の人です。経済発展著しい祖父の地である韓国を訪れて、そこで見て聞いて感じたことを書き記したのが表題の本です。朝鮮族の血を引きながら、育ったのは中国であるため、中国人としての意識と、朝鮮族の郷愁を併せ持つゆえに、その韓国への視線は非常に独特なものがあり、私も興味深く読ませてもらいました。

朝鮮半島の住民にとって、文明とは中華であり、中華に反発しつつも、憧れを抱き、シナの人々以上に忠実な儒教の民として歴史を育んできました。世界の中心であることに疑問すら持たぬシナの中華思想の、最も忠実な実践者、それが朝鮮半島の民なのでしょう。

率直に言って、シナの人々以上に中華思想及び儒教を体現したと評しても、そう間違いではないと思う。だからこそ、500年近く李氏朝鮮王朝は継続したのでしょう。世界的にも驚くべき安定した、つまり停滞した社会であったようです。だからこそ、その過去を美化して進歩、変化を嫌う意識がきわめて深く根付いた国民性を育んだ。しかし、そのために近代化に遅れ、日本の植民地とされたのですが、自らの頑迷さは無視しています。

中華思想と儒教の本国であるシナ以上に、儒教の理想を実現した朝鮮半島の人々は、凄まじいエリート意識を狽チたようです。度が過ぎたのか、儒教の開祖である孔子は、朝鮮族であるとの奇説を掲げ、中国人から失笑を買っている始末。

あげくに、経済発展の遅れた共産中国に、経済進出したは良いが、優越感を振りかざし、かえって中国人から軽蔑される傲慢ぶりを、著者に辛らつに書かれています。中国に対しても、優越感を示す韓国が、長年蔑視していた日本に対して傲慢不遜なのも当然といえば、当然なのでしょう。

たしかに中国を座標にして、儒教という物差しで計れば、日本は遅れた蛮族の国なのでしょう。でも、私に言わせれば、そこが勘違いのもと。

日本は確かに中国から法令や書物、工剣iなどを輸入しましたが、すべてを採用した訳ではない。例えば宦官や纏足は拒否しています。また儒教を学びはしましたが、あくまで教養としての扱いで、宗教として受け入れたわけではない。だから儒教で一番大事な礼記は、ほとんど取り入れていない。なにより科挙を採用しなかった。

あくまで日本人として、日本に有用なものだけを選んで輸入しているのです。さらに付け加えるなら、日本は歴史的に中国に対する敬意は、まず間違いなく持っていました。しかし、その中華文明の通り道にある国(朝鮮)にまでは、その敬意は及ばない。せいぜい、礼を失しない程度の配慮でした。

日本が学んだのは、あくまでシナの文化であって朝鮮半島の文化ではないからです。ところが、朝鮮半島の人々は、自分たちが日本を教化してやったのだと思い上がる。これは勘違いそのもの。

たいへんうっとおしいことに、この勘違いは絶対直らない。なぜなら、儒教という宗教に根ざした優越感からくる勘違いなので、理屈や論理を受け入れない。

似たような例として、イスラム教徒のキリスト教に対する優越感があります。この二つの宗教は同じ神をあがめますが、後発のイスラム教は最新の宗教として、キリスト教を見下してきました。実際17世紀までは文明的にも、イスラム社会のほうが先進国でした。

しかし、産業革命以降キリスト教社会が文明の中心となり、イスラム社会は発展途上国との位置づけになりました。欧米は時折、イスラム社会からの歪んだ優越感に責められましたが、その対応は冷淡そのもの。実害がない限りは無視し、そうでなければ実力による排除あるのみ。

日本も欧米に習って、冷淡に無視すれば良いのです。宗教的確信に論理や正論は通じません。間違っても、意味不明のジャパニーズスマイルで応じてはいけません。もっとも外務省が無視では困る。日本海・東海問題などは、韓国を相手にするのでなく、それ以外の国に対応すべきです。

どこの国でも、おらが国が一番との思いはあるのでしょうが、朝鮮半島の人々ほど激しいのは珍しいと思います。儒教を宗教として受容することを拒否した、日本の先人の英知に感謝すべきなのでしょう。
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オシム・ジャパンの欧州遠征

2007-09-18 09:36:41 | スポーツ
ちょっと驚いた。

先週ヨーロッパへ強化遠征を行ったオシム・ジャパン。オーストリアとの試合では中盤を制していながら、結局得点出来ず引き分けてのPK負け。相変わらず攻撃に課題を残したと思っていたら、なんとスイスに4‐3で勝利。

その日は安倍首相の電撃辞意表明というビックニュースがあり、しかも夜には反町ジャパンの北京五輪予選もあったため、どうしてもニュースとしての扱いは小さくなったのが、少し気の毒だ。

サッカーの日本代表が、ヨーロッパの地でヨーロッパの国に勝つことは滅多にない。よほどの弱小国ならいざ知らず、ドイツ・ワールドカップで無失点でのベスト16のスイスは、決して弱小ではない。現在行われているEUROの予選でも上位を窺う実力国でもある。

もっとも試合そのものは、スイスがほぼベストメンバーの前半は押されっぱなしの0≠Q。スイスのDFの要である主将が交代した後半に、一気に走るペースが落ちたスイスを攻め立てての逆転劇であったようだ。

若手の強化を狙ったスイスの失策につけ込んだが故の勝利だと思うが、勝因はそれだけではない。やはりフランスリーグのルマンで中心選手として活躍する松井大輔の存在が大きい。他の日本選手と異なり、ドリブルでペナルティエリアに切り込め、センタリングもシュートも打てる強さが光った。

もう一人は中村憲剛からボランチのポジションを奪った稲本だ。その攻撃的守備はトルコでもドイツでも通じる力強さ。相手のボールを奪って、前線へのパスが効果的だった。

ポジションを奪われた中村憲剛は、さすがに奮起したのか後半40分過ぎでの交代投入にもかかわらずシュートを打ち、そのこぼれ玉を、やはり交代投入された矢野が押し込んでの決勝点。

オシムの交代采配が珍しく当たった試合でもあった。

その同じ日に行われた北京五輪の予選試合を見ても、やはり活躍できるのは個人として強い技量を持つ選手。いくら戦術を磨いても、個人の技量の向上なくして勝ち進むことは難しい。

戦術でしかサッカーを語れないサッカー評論家は、よくよくこの現実を銘記していただきたいものだ。
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