ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

深夜の散歩

2009-11-06 12:16:00 | 日記
夜が明ける前の丑三つ時こそが、街は一番美しく輝く。

深夜の散歩をいつから始めたかは思い出せないが、多分中学生の頃からだと思う。当時は机を玄関の近く、台所の片隅に移して深夜一人で勉強するようになっていた。

風呂場とトイレのはざまにあるスペースに机と椅子を持ち込んであるため、家族が起きている時間はせわしないが、皆が他の部屋で寝入ると、その場所は私の王国となり、好き勝手が出来た。

当時は勉強しつつ、深夜ラジオに耳を傾ける「ながら族」であった。オールナイトニッポンやパックインミュージックが終わる深夜3時までは、ほぼ間違いなく起きていた。

勉強は結構適当で、本を読んでいることも多かった。時折、抑えきれぬ衝動に動かされて、深夜密かに外出することがあった。手早く着替えて、家族を起さぬように静かに玄関を開けて、薄暗い外へ抜け出した。

別に目的があったわけではない。私はこの時間の街の風景が好きだっただけだ。

静かで、本当に静かで、家々の明かりは消えていて、街頭の明かりだけが輝いて暗闇を消している。自分一人が世界を独占している気がする。暗闇はそこにあるはずの汚い現実を隠し、小さな灯火だけが微かな希望を予感させる夜明け前が、街は一番美しい。

繁華街の方へ向かうと、さすがに人影はまばらで、酔漢が寝転んでいたり、水商売の女性がたむろしていたりと、昼間とは異なる街の顔を覗かせてくれる。

目的はないと言ったが、隠れた目的はあったのかもしれない。繁華街から路地を一本入ったある家に行けば、男の子を男にしてくれる女性の部屋があると噂があった。

私は当時、自分の内面に蠢く不思議な衝動を持て余していた。それが性に絡むものであることは、なんとなく分っていた。しかし、当時はまだ性欲を性欲として捉えることが出来なかった。少し晩生だったと思う。

だからその部屋の近くまで行っても、扉を叩くことは出来なかった。近くまで行くと、一度立ち止まってから後に通り過ぎて、その傍のマンションの非常階段を上がり、屋上から下を眺めるだけだった。

高いところから眺める丑三つ時の街は、暗く輝く不思議な光景だった。その風景には私を落ち着かせる効用があった。気持ちが静まったのが分ると、私はそっと家に戻ってベッドに潜り込んだものだ。

誰にも知られぬ私の密かな夜の散歩だった。

数年後、高校を卒業してから、その街を引っ越すことになった。なんとなく感傷的な気持ちで、私は街を歩き回った。歩くたび思い出が甦り、寂しい気持ちにさせられた。

私が入り浸っていたパチンコ屋を見て周り、店長に挨拶してから二階のゲームセンターに向かった。入り口の脇にあるトイレの前で、一人の女性とぶつかってしまった。スイマセンと謝ると、その女性が声を上げた。

「あら、久しぶりね坊や」 え? 知らないぞ、俺は。

「結局、一度も来てくれなかったわね」と怪しく微笑まれた。「待っていたのにね」と恨めしそうに呟くと、立ち去っていった。しばし呆然と佇み、ようやく気がついた。あの部屋の女性なのだと。

顔から火が吹いたように赤面した。

バレていたんだ・・・猛烈に恥ずかしくなった。自分一人の秘密だと思い込んでいたのに、よもや知られているとはね。行くべきだったのか、それとも行かなくて良かったのか、今となっては分らない。

思春期の頃の思い出って、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。あれから30年、もう既に忘れていたのだが、たまたま夜更けのドライブをして、暗く輝く街並みを眺めているうちに思い出してしまった。この時間の街が美しいのは、今も昔も変わらないのにね。
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自衛隊が世界一弱い38の理由 中村秀樹

2009-11-05 12:37:00 | 
切れたら怖いぞ、日本人は。ただし、良くも悪くも、だが。

表題の本の著者は、退役自衛官であり、田母神氏のようなエリートではなく、現場育ちの軍人だ。冷戦時において、潜水艦の艦長として第一線で勤務していただけに、その発言には実感がこもっている。

私は以前から、自衛隊はカタログ軍隊であり、実戦では使い物にならないと思っていたが、私の考えは甘かった。まさか、これほどまでに駄目な軍隊だとは思わなかった。

詳しい内容は、この本を読んでもらうに限るが、一言で言えば平時のシステムである官僚組織のルールを、非常時に役立つ組織である軍隊に強要した結果、使えない軍隊に育ったとの指摘は相当に説得力がある。

悪法であっても法は法。法治の原則に従い会議に会議を重ね、刻々と変化する現実に対応できない自衛隊。

もし、仮に対馬に韓国軍が攻め込んだらどうなるか。あるいは、沖縄の与那国島に共産シナ軍が攻め込んだらどうなるか。

在日米軍が動かない場合、日本は単独で対処せざる得ない。だが現行法では攻め込まれても最低一週間は動けない。有事法制が未整備である上に、平時のルールを強要する官僚組織が、即時対応を阻む。

アメリカ軍を恐れずとも、韓国軍からは逃げ回ったベトナムの人々が実証したように、残虐さで知られる韓国兵に蹂躙される対馬の人々を見殺しにするのか。

チベットやウィルグの人々を弾圧しておいて、恥じることなく驕り高ぶる共産シナ兵たちが沖縄の人々を平和的に統治すると朝日新聞は報じるかもしれない。その平和的統治の中味は、抗議する沖縄の男性を強制労働キャンプに放り込み、過労死に追い込むことであることは、報じる気はないだろう。

日本人女性に不妊手術を強要し、大量の漢人を移住させて支配を強化するのを横目で、あくまで話し合いによる解決を主張するであろう平和真理教の善良なる方々は、つまるところ自らの平和のために沖縄を差し出すことに他ならない。

果たして自衛隊は、それを傍観するのか。おそらく幹部たちはそうするだろう。あれは軍人ではなく、事なかれ主義がこびり付いた官僚に過ぎない。しかし、現場の兵士たちは黙ってみていられようか。

黙ってなんていられるか!

そのような惨状を見過ごすほど、日本人は大人しくない。我慢に我慢を重ねた上で、暴発すると私は思う。切れると怖いぞ、日本人は。

もし現場の兵士たちが、上層部の命令を無視して戦いの火蓋をあけたとしたら、世論はどちらを支持するだろうか。私の予想では、世論は圧倒的に兵士を支持すると思う。なにもせずに傍観する話し合い至上主義者を支持したりはしないと思う。

その結果、シビリアンコントロールを脱した兵士たちが止め処もなく暴走し、戦線は限りなく拡大し、周辺の国々を巻き込んでの地域紛争に発展する可能性は高い。

有事法制を整備することを怠り、危機に対応できない法治体制で誤魔化してきたツケは、自国の軍隊をコントロールできない政府を再現する。

これは再現、これはいつか見た姿だ。半世紀前大陸にて暴走する軍部を抑えることが出来なかった当時の日本政府と同じ過ちを繰り返す。いつの時代でも、戦争は始めるより、終わらせるほうが難しい。兵士から信頼を失した政府に戦争を終わらせる力はない。待ち受けているのは、避けられたはずの敗戦である可能性は高い。

戦争の反省を謝罪とテルテル坊主(憲法9条)崇拝で誤魔化してきた結果は、再び日本を戦争の泥沼に引き摺り落とす。戦争を否定し、話し合いを絶対視してきた平和愛好市民こそが、日本を戦争に引きずり込む土壌を育む。

人生は皮肉で残酷なものかもしれない。私としては、そんな哀れな日本をみたくない。そんな日がこないことを、テルテル坊主様にお祈りしますかね。祈って済むのなら・・・ですが。
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現代思想の遭難者たち いしいひさいち

2009-11-04 13:20:00 | 
口に出してしまうと奇異の眼で見られることが多いが、やはり誰でも一度は考えると思う。

人はなんのために生きているのだ?

人智を超えたところに回答を求めると宗教に行き着く。人界にて答を模索すると哲学が待ち受けている。

難病に苦しみぬいた20代の頃、本気で生きることの意義に悩んだ。ただ、十代の頃に宗教団体ともめて以来、神を口にする人間が信用できなくなっていた。だから必然的に哲学の世界を彷徨った。

高校生の頃の倫理社会の授業以来であり、大学では哲学は履修しなかったので、とりあえず著名な哲学者からあたってみた。デカルトに答えはなく、ルソーには胡散臭さを感じ、ホッブスはお門違い。

ここで止めて置けば良かったのだが、なにを思ったのかニーチェに手を出したら、更なる深みにはまり、かえって苦しむことになった。一言助言しておきますが、心が弱っている時には、絶対にニーチェは読まないほうがイイです。

あげくにハイデッガーとかドゥルーズなんぞに手を出したが、難解すぎて訳が分らなくなり、ついに投げ出した。どうも、素人が手を出すべき世界ではないらしい。

ドつぼにはまって、さあタイヘン。いっそ、死ぬのも悪くないなどと思い込んだが、苦しいのは嫌だし、面唐ュさい死に方も嫌だ。後腐れがなく、後始末が簡単そうな死に方はないかしらと図書館で探しているうちに、娯楽系の小説に手を出してしまい、続きが読みたくなって自殺は延期することにした。

こんな私には哲学は似合わないらしい。

私が匙を投げた哲学をギャクの素材にして、しかも四コマ漫画で調理したのが、いしいひさいちだ。こりゃもう、呆れて感服するしかない。

これを読んで哲学の理解の助けになるとは思わないが、或る程度哲学を読破しなければ、これほどの内容の漫画は描けない。いしいひさいち恐るべしである。

しかも謹厳実直な哲学者をギャグのネタにするあたりが、実にいしいひさいちらしい。一筋縄ではいかないギャグ漫画家だと思う。「ののちゃん」しか知らない人は是非とも読んで欲しいです。
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伊豆の踊り子 川端康成

2009-11-02 10:17:00 | 
まずい!電車のなかで欲情してしまった。

しかも、満員の通勤ラッシュの電車のなかだ。折り悪く女性に囲まれている。いくら座っていても、かなり居心地が悪い。なんとかせねば。

こんな時の私の必殺技は「税法暗誦」だ。

「第22条 内国法人の各事業年度の所得の金額は、当該事業年度の益金の額から当該事業年度の損金の額を控除した金額とする。第二項 内国法人の各事業年度の所得の・・・」

おかげで気持ちは平静を取り戻した。

厳格なる税法を、このような不埒な手段に使うのは、数多居る税理士のなかでも私だけだろう。

それはともかくも、私をこのような窮地に追いやったのが表題の作品だ。ノーベル文学賞受賞作家たる川端康成の代表作の一つでもある。ほぼ三十数年ぶりの再読なのだが、驚いた。

地面に掘られた穴に向かって叫んでしまうぞ。「川端康成のスケベ~!」

「伊豆の踊り子」だけだと、それほどスケベな印象はない。だが短編集「伊豆の踊り子」の他の作品を読んだ後に、改めて再読すると、スケベな印象が飛躍的に高まる。

初めて読んだのは、中学生の時だと思うが、当時はそれほど扇情的な印象はない。それは、おそらくは私がまだ子供であったのだろう。私は人並みにスケベなつもりだが、いささか晩生であったのは事実なので、当時は川端文学の真骨頂を感じ取れなかったのだろう。

別に川端康成を卑下しているわけではない。性欲が人間の三大本能である以上、その性欲を見事に描き出してることは立派だと思う。

実際、川端先生よく見ている、よく観察している。そしてたっぷりと想像というか妄想をしていると思う。それを平易で簡潔な文章に昇華して書き出す才は凄い。

伊豆での旅行の最中に出会った若い踊り子に欲情をかきたてられた学生が、悶々とした夜を過ごすが、踊り子がまだ子供であることを知った途端に憑き物が落ちたように平静を取り戻す。同時に心の奥底につもり、こびりついた妄執までもが洗い流されてしまう。

その心情、私にも分る。分るが、つくづく思うのは男って単純で、バカだなってこと。いいじゃないか、バカでもさ。そんな愚かさも、人生には必要なのだと、あたしゃ思うね。
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