ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

コパ・アメリカ大会への参加意義

2011-04-21 16:28:00 | スポーツ
舐めちゃいけませんぜ。

東日本大震災の影響で、Jリーグはスケジュールを大幅に変更せざる得なくなった。その結果、当初の予定では南米で開催される選手権、通称コパ・アメリカ大会への代表チーム参加を取りやめるよう、Jリーグ各チームの首脳陣が日本サッカー協会に働きかけた。

本来は、リーグ戦を中断している間に、この南米選手権への参加であり、Jリーグには影響を与えないはずであった。しかし、今回の大震災のため、中断期間を取りやめてリーグ戦を行うこととなった。

そうなると、代表にチームの主力選手を取られることは、チームの大幅な戦力ダウンとなる。それを嫌がっての、南米選手権辞退であった。当初、日本サッカー協会も、この要望を止むなしと考えて受諾した。

しかし、アルゼンチンが異を唱えた。この大会を日本支援の一環としたいので、日本には是非とも参加して欲しいと要望してきた。この要望を受けて、日本サッカー協会は再考し、遂に参加を決定した。ただし、海外のチームに所属している日本人選手と、リーグ戦ではレギュラーでない若手で代表チームを作るらしい。

それでいいのかい?

なぜ、川淵三郎は日本にプロサッカー・リーグを作ろうとしたのか?それはプロでなければ、世界に通用しない現実を痛切に噛み締めたからこそ、であろう。

いつまでもアマチュアではダメだ。サラリーマンと鰍ッ持ちの社会人リーグではダメなんだ。その思いがあったからこそ、プロリーグを作ったのだろう。

たしかにJリーグは、日本サッカー強化のための基盤だ。しかし、目的ではなく手段であることを忘れていないか?世界に通じるサッカー選手を育てる基盤としてのJリーグであり、コパ・アメリカ大会はワールドカップに次ぐと言っていいくらいのレベルの高い大会なんだぞ。

日本サッカーが、世界で真剣勝負を出来るのは、ワールドカップ予選とアジア大会しかない。南米の強豪国で真剣勝負を出来るのは、このコパ・アメリカ大会しかない。こんな素晴らしい機会を逃すつもりなのか!

アジアではトップレベルにある日本だが、世界ではまだまだ二軍程度の実力だ。世界で最も長い伝統をもつコパ・アメリカ大会では、おそらく最もレベルの低いチームが日本である可能性は高い。

先のワールドカップ南ア大会で、パラグアイにPK負けしたが、試合内容だって完敗だったと私は思う。そのパラグアイでさえ予選リーグを勝ち抜ける保証がないのが、コパ・アメリカだ。

まして、先だって日本での親善試合で、日本に初めて敗北を喫したアルゼンチンは、自国民の前でリベンジを果たしたいと切望している。日本を本気で潰しくくるだぞ。

こんな厳しい経験が出来るコパ・アメリカ大会は、絶対に出場すべきだ。ここで選手たちに厳しくも素晴らしい経験を積ませるべきだ。こんな素晴らしい機会は滅多にないぞ。

それなのに、各Jリーグのチームの首脳陣は、各チーム一人しか出さないとごねているらしい。本気で日本サッカーの強化を願うのなら、喜んで代表にベストの選手を出すべきだ。

そして、その隙間を若手に埋めさせて、若手を活躍させることが出来るはず。もちろん、代表に行った選手たちは、そこで厳しくも素晴らしい経験をしてくる。これこそ、日本サッカー強化の王道であろう。

私はJリーグを軽視するつもりはないが、Jリーグはあくまで日本選手の強化の基盤であるとも思っている。目的と手段を混同してはいけないと、私は考えます。
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余震の夜

2011-04-20 15:06:00 | 日記
最初は気がつかなかった。

理由は簡単で、車が振動していたからだ。これは道路に浅い溝が刻まれていて、走ると軽い振動が出て、自然とスピードが落ちるようになっていたからだ。

ここは東八道路。東京西部、八王子と新宿を繋ぐはずのバイパスである。ただ、いささか中途半端な道路で、完成するには当分かかると思う。ちなみに私が十代の頃から計画と工事は続いているから、気の長い話である。

とはいえ、甲州街道を使うよりも快適に走れるのは確かだ。私も良く使う道路である。快適に走れる道路ではあるが、スピードは出しにくい道路でもある。

なぜかというと、丁度真ん中に警視庁の運転免許センターがあるからだ。当然に警察の車が頻繁に走っている。いや、走っているだけではない。

坂がある関係で、どうしてもスピードが出やすい部分があるのだが、その部分に上記の振動が出る溝が刻まれている。これは絶対に警察の余計な差し出口で作られた仕組みに違いないと、私は確信している。

そんな訳で、3月の東日本大地震以来、最大の余震があった時も、すぐには気がつかなかった。ただ、信号で止まったにも関らず、なぜか車が微妙に揺れているので、ヘンに思った。

最初はエンジンの異常を疑った。次にタイヤを考えて、最後に地震かもしれないと思い至った。よくよく見ると、斜め正面に見える交番から、お巡りさんが飛び出して看板を指差したりしている。

すぐにラジオを付けると、若い男性DJが落ち着くようにと話していた。東京だと震度は3だそうだが、ちと疑わしい。後日の報道では震度4であった。これなら分る。

気になったのは、自宅の本棚だ。新しい本棚を買って、組み立ててあるのだが、まだ整理していない。壁際に本が山積みになっているので、今回の余震で崩れているはずだ。

案の定、帰宅すると本が雪崩を起していて、床に散らばっている。もう、余震にはウンザリだ。もっとも、被災地の東北地方の方々の心痛は、こんなものではあるまい。

被災地の復興への道のりは、単に険しいだけではなく、長く続くものだ。復興に向けて何よりも大切なのは、意思の力だ。これを継続させることこそ難しい。

まして、今回のように余震が続く場合、せっかくの努力が一夜にして藻屑と化すことも珍しくない。これは心のスタミナを消耗させる。

長く続く復興事業は、忘れた頃にこそ助けの手が必要だ。

私にも覚えがある。20代の大半を難病からの回復に充てた私だが、正直言えば何度も挫けそうになった。図書館に赴き、楽に死ねる方法を模索したこともあった。今でこそ笑い飛ばせるが、当時は相応に真剣だった。

だが、そんな時に限って久しく疎遠だった友人から声がかかったり、思いがけぬ出会いに、病み衰えた心に安らぎを与えられた。

私は決して一人で生きてきた訳ではない。誰かの助けがあってこそ、今の自分がある。今は目の前のことに忙殺されて、余裕がない。でも、マスコミは報道を止め、世間が忘れた頃にこそ、東北に赴いて自分の手で復興の手助けをしたいものだと思う。

たいしたことは出来ないと思うが、ほんの小さなことだけでも救いになる。私自身の経験からいって、それは小さくとも役に立つものだと信じている。

いつか、必ずだ。
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街路樹のある通り

2011-04-19 12:12:00 | 日記
街路樹が植えてある道を歩くのは楽しい。

特に春がいい。街路樹の陰に入れば、まだ冬の残り香のような寒さが感じられる。しかし、陽射しのなかに踏み出せば、春の陽気が心地よい。

これが秋だと、少し趣がことなる。日向を歩めば夏が思い出されて、涼しさへの安堵と眩しさへの憧れが入り混じる。そして日陰に入ると、冬へ向かう厳しさを嫌でも思い出す。やはり春がいい。

歩くたびに、交互に訪れる日陰と日向。人生を歩むということも、街路樹のある通りを歩むようなものなのだろう。楽しい事と辛い事、厳しさと優しさ、幸運と不運とが交互に訪れる。

そんな街路樹の散歩道を歩くと、時たま思い出すのが少女漫画家の河あきらだ。

私が少女漫画を読んでいたのは、1970年代前半までなので、その頃雑誌(マーガレットかも)に掲載されていたはずだ。ただ、タイトルが思い出せない。Wikiなどで調べてみても、思い当たる節がない。

覚えているのは、ショートカットで丸顔、そして大きくて丸い黒い瞳の登場人物たちだ。その絵柄は少女漫画雑誌のかなでは、少し浮いていたように思う。そのせいか、えらく記憶に残っている。

なかでも、エンディングで並木道を泣き笑いしながら走る主人公が、日向と日陰が交互に続く街路樹の通りを人生に喩えていた場面が印象に深い。

たしかに、人生って奴は並木道を歩むようなものなのかもしれない。少し日陰が長いと人生を悲観してしまうし、日向を歩む時間が長いと、いい気になって浮かれてしまう。

幸せは長く続かないのと同様に、不幸せも永遠に続くことは無い。ただし、歩みを止めないかぎり、はだ。

街路樹を歩くと、河あきらのあの漫画を思い出す。タイトルも思い出せないが、いつか又めぐり合いたいものだ。
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歴史をかえた誤訳 鳥飼玖美子

2011-04-18 10:03:00 | 

異なる言語による意思疎通は難しい。

単に言葉が違うというだけではなく、言葉を生み出した土壌である文化の違いが背景にあるからだ。この文化の違いを分るためには、各々の文化についての深い教養を必要とする。

その文化についての教養を深めようと思えば、相当な量の読書と思索が必要となる。文撃セけでなく、スポーツや武道、産業、教育などの幅広い見識が求められる。

文章を翻訳するだけなら、調べる時間もある。しかし、言葉を通訳するとなると、即時性が求められるため、とっさの思考力と洞察力までもが求められる。

ちょっと考えただけでも、相当な困難が待ち受けていることが分る。この難しさを分る人と、分らない人がいるから頭が痛い。

いわゆる帰国子女には、相当な格差がある。なかでも留学というよりも遊楽と評した方が相応しい帰国子女には頭が痛い。当人は自分が外国語が出来ると思い込んでいる。翻訳はもちろん、通訳の難しささえも、気軽に考えているから始末に負えない。

いくら発音が良くても、話す内容がお粗末ならば話にならない。母国である日本のことさえ満足に知らない以上、それを外国語で説明することが出来ないのは当然。ところが当人の教養レベルが低いため、そのこと事態自覚できない。

では、高学歴なら大丈夫か?

そうとも言い切れないのが、悩ましいところだ。まして、政治会談など社会的に影響が大きい立場の人たちが、外国人との交渉の場での過ちは、悩ましいでは済まされない。

表題の本でも取り上げられているが、佐藤栄作首相が日米繊維交渉の際に、アメリカ大統領に対して腹芸による対談を求めたケースなど、その典型であろう。

たとえ文化が異なろうと、合い共通する意思の疎通は不可能ではない。しかし、具体的な問題解決のための政治交渉の場で腹芸はないだろう。いくら通訳の人が才知を尽くしても、これでは誤解が生じるのも無理はない。

ちなみに佐藤栄作本人は、高学歴エリートの筆頭ともいっていい。決して本人の知的レベルは低くはない。しかし、所詮国内でしか通用しないエリート。

国内政治ならば、腹芸による政治折衝は普通なのだろうが、それをアメリカ人に求めるところが情けない。腹芸が通じなかった結果、ニクソン大統領の敵意を買い、結果的にニクソン・ショックと呼ばれる外交的失敗を招いたのだから、責任は重大である。

表題の本は、他にも通訳と翻訳の違い。意図的な誤訳や、悪意なき誤訳を取り上げており、なかなかに興味深い。単に誤訳とは言い切れない難しさについても触れてあり、私のような翻訳ものが好きな人間には、いろいろと考えさせられることが多かった。

ただ、著者が翻訳や通訳のプロであるため、誤訳が生じる原因についての追求が甘い。とりわけ軍事用語や、戦争関連の翻訳についての誤訳が、なぜ生じるのか。その背景を避けて記述している観があり、そこに物足りなさが残る。

明言は避けているが、これこそ意図的な誤訳ならぬ、省略ではないかな。まあ、著者本人は、あくまで通訳のプロとしての意見に留めたいようなのですが、その点に不満が残りましたね。

コメント (7)
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ヒースロー空港でピカチュー

2011-04-15 15:19:00 | 旅行

子供の目がキラキラ輝くのが苦手だ。

あれはロンドン郊外のヒースロー空港でのことであった。目的地のブリュッセルには、日本からの直行便がないため、ここヒースローで乗り換える訳だが、4時間も空いてしまった。

いくら広くて快適なヒースロー空港といえども、トランジットで4時間は辛い。中途半端すぎるのだ。さて、どうする?

待合室の長いすに寝そべり、少し眠ろうかと思ったが、子供たちの声がうるさくて眠れやしない。ふと見ると、私の手前で金髪の男の子が、ピカチューのヌイグルミと一人遊びをしている。こんなところで、日本のポケモンに出会うとは思わなかった。

暇を持て余した私は、手元にあったレポート用紙にボールペンでピカチューの絵を描いてみた。単なる時間つぶしではあるが、単純に描いたのでは面白くないので、ピカチューが青筋たてて怒っている顔にしてみた。

別に難しくない。額に青筋描いて、目を丸から三角に変えればいいだけだ。我ながら、良く描けた。ちょっと反応が見てみたくなって、Hey BOYと声をかけて、その金髪の男の子に渡してみた。

すると、その男の子、しばし硬直して絵を見つめていた。次の瞬間、なにやら叫ぶと、走り去っていく。なんなんだ?

どうやらお母さんの元に駆け寄り、こちらを指差しながら、なにやら喋っている。ありゃりゃ・・・お母さんと思しき人が軽く会釈をよこしたので、こちらも軽く頭を下げる。

さて、一休みするかと思いきや、周りを見渡すと、5人ほどの子供たちが私を囲んで、紙を差し出してきた。おいおい、これに描けっていうのかい。

断ろうかと思ったが、どの子も目をキラキラさせて見つめてきやがる。ハッ~とため息一つついて、ボールペンを手に取った。まァ、5枚くらいなら描いてやるか。

ところがだ、気がつくと子供たちが集まってきている。どうみても15人はいるぞ。なかにはビカチュー以外のポケモンを描いてとねだって(どうも、そう言っているとしか思えない)くる子もいる。青い雀みたいな奴とか、緑のトカゲとか、わけ分らん。

勘違いされると困るから、はっきり言えば、私の描いたポケモンなんて、悪戯描きレベルに過ぎない。ただ、ちょっと手を加えて遊び心をだしただけだ。なんで、こんな絵が欲しいのか?

それから一時間弱、私はポケモンの絵を描き続ける羽目に陥った。後になって気がついたのだが、どうやら、一族で旅行に行こうとしている家族グループであったらしい。

飽きっぽい子供たちが、やがてボール遊びに夢中になって、ようやく私は解放された。すると、私の目の前に、紅茶の入った紙コップと、サンドイッチが差し出された。

先ほどのお母さんと、初老の男性だった。お礼のつもりらしい。断るのもなんなので、ありがたく受け取っておく。私が英語を苦手だと分ると、ゆっくりと話してくれたので、おおまかに意味は伝わってきた。

どうも私を任天堂の社員かなにかだと思ったらしい。こちらが、ただ絵が好きなだけだと答えると、大げさに驚いていた。ただの素人絵に過ぎないと思うのだが、悪い気はしない。

どうもスコットランドから来たらしい。どうりで癖の強い英語だと思った。やがてフライトを案内するアナウンスと共に、初老の男性が口笛を吹いて子供たちを集めて、立ち去っていった。

よくまあ、あれだけの子供たちを統率できるものだと感心した。立ち去り際に、数人の子供たちが、私の描いた絵を嬉しそうに頭上に上げて、手を振って挨拶してくれた。

こんな出会いと別れも悪くない。でも、まあ、ポケモンの絵を描くのは当分勘弁である。あんな期待を込められた瞳で見つめられたら、断るに断れないぞ。

コメント (3)
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