ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

のぼうの城 和田竜

2014-10-24 12:07:00 | 

小学生の頃だが当時、私たちは「ごとぶつけ」という球技に夢中であった。簡単に云えばドッチボールなのだが、少し違っている。

まずコートがない、というか必要ない。だから、どこでも出来る。とにかくボールに5回当たったら負けであり、試合から抜けねばならない。そして仲間チームが全滅したら御終いなのだが、問題はその後だ。

負けたチームは一人ずつ壁際に立たされて、勝ったチームの全員からボールを当てられる。たしか当時、これをリンチと呼んでいた。もちろんボールはゴムボールであり、大怪我することはない。

ただ、痛い以上に浮「のだ。だいたいが、壁際に後ろ向きで立たされ、目を閉じてボールが投げつけられるのをじっと待つ。この待っている時間が、実に嫌だった。

私がこの「ごとぶつけ」をスメ[ツと云いたくないのは、このリンチ故である。実はこのリンチは、一様ではない。放課後の公園などでやるときは、弟とか年少の子供が混じることがある。

当然ながら、これらの子供はリンチでも手加減される。問題はその逆もあることだった。五回当てられたかどうかは、自己申告なのだが、これを誤魔化す奴は、リンチの時にかなり手ひどくボールをぶつけられる。助走をつけて、思いっきり当てられたボールはひどく痛い。

これは卑怯をしたのだから、ある意味当然であり、私たちはこんな遊びから、卑怯な嘘はいけないことだと学んだものだ。さらに困るのは、このリンチが恣意的に私刑として使われることだった。

具体的にいえば、先生にチクリ(密告)をする奴とか、嘘をつきまくる奴とか、肝心な時に逃げ出す奴は、このリンチの時に手ひどくやられる。これが怖い。いじめといっていいほどなのだが、これは堂々遊びの中でやられるため、逃げづらいし、逃げれば村八分が待っている。

白状すると、転校生であった私は、時折無意識に生意気な態度をとることがあったせいで、この「ごとぶつけ」のリンチでしばしば手ひどく痛い目にあっている。怪我した訳でもないのだが、クラスの一員として馴染むまでは、この遊びが辛くて仕方なかった。

だが、この遊びのなかで、クラスの人間関係とか、クラスメイトの気質などを学んだことも事実であり、私にとっては先生の授業よりも学ぶべきことが多かった。

この遊びでは、なんといっても球を投げるのが上手い奴が偉い。次にボールをキャッチできる奴は尊敬される。私が不思議だったのは、上手くもなく、キャッチも出来ず、それでいて常にグループの真ん中にいたM君であった。

M君は無口なだけでなく、動きものんびりしており、大柄な体と相まって絶好の鴨なはずであった。しかし、あまり狙われないのが不思議であった。むしろ周囲から守られている感さえあった。

別に知恵おくれでもなく、気前のいい奴ってわけでもなかった。話術が上手いわけでもなく、ただ鷹揚に、ドンと構えているだけの奴だった。だが、不思議と周囲に人を集める奴でもあった。

今にして思うと、彼は拒否しない奴であった。皆の苦情や悪口を、嫌な顔一つ見せずに耳を傾ける度量があった。滅多に自分からは意見を主張することはないが、彼は周囲の誰もが思っていながら口に出来ないことを、堂々発言する奴でもあった。

忘れられないのは、公園で「ごとぶつけ」をやっていた時に、中学生が5人ほど現れて、私たちを追い出しにかかった時だ。小学校5年生にとって中学生は怖い。理不尽な言い分だとは思ったが、威嚇されて仕方なく立ち去ろうとした時だ。

それまで黙っていたM君が、突如「嫌だ、なんで先に来ていた僕らが追い出されなきゃいけないのか分からない」。決して大声ではなかったが、覚悟を決めた重い声であり、彼は公園の真ん中に仁王立ちとなり、動こうとしなかった。

すると、彼を囲むように皆が集まった。まだ転校してきて間もない私だが、ここは皆に合わせねば明日はないと瞬時に理解して、同じく立ち止まった。

結果、激高した中学生に殴られ、蹴られ、投げ捨てられて公園から叩きだされた。だが途中から近所の大人たちが駆けつけて、中学生を叱りつけて、そのまま交番に連れて行ってしまった。

残った私たちは、怪我だらけで鼻血を出してる奴や、青あざだらけの奴らばかりで、痛みに喘いでいたが、気分は爽快であった。ボロ負けではあったが、高揚した気持ちは、その日一日続いた。

その時からM君は、みんなから大将と呼ばれるようになった。残念ながら、その数か月後、春休みにM君は親の転勤で転校してしまった。お別れ会を教室でやったが、最後はみんな、特に男子が大泣きであった。

表題の本を読んだときに、思い出したのはM君のことであった。私の半生においても、彼のような大きな器をもった人間には滅多に遭遇したことはない。きっとM君は、どこの町、どこの職場にいても鷹揚に構えて、みんなの中心にいると思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性閣僚への攻撃

2014-10-23 11:59:00 | 社会・政治・一般

次の選挙で野党が勝つのは難しいだろうと思う。

安倍政権の内閣改造の目玉であった女性閣僚への下らぬ攻撃で、閣僚を辞任に追い込んだと意気上がる野党だが、あれが評価されると思っているのか?

言っておくが、うちわを使った選挙活動だろうと、観劇の補助だろうと、それが公職選挙法に違反しているのなら、それは正当に裁くべきだと思う。

思うが、だからどうした、との印象が拭えない。安倍政権の足を引っ張っただけでなく、本来もっと真剣に議論すべきことが、されていない苛立ちのほうが強く感じるぐらいだ。

私のみたところ、アベノミクスの効果はあるにはあるが限定的で、株式市場と不動産市場だけだ。円安効果による輸出伸長はたしかにあるが、反面ガソリンや天然ガスなどは輸入価格の上昇によるデメリットが確実に出ている。

おまけに消費税増税後、確実に消費指数は低下していることは、小売店、飲食店の売上減少などからも読み取れる。不動産のなかでもマンション販売は、確実に低下しているし、アメリカ経済の減速を受けて株式市場も徐々に低落の傾向をみせているのではないか。

安倍首相は近年まれにみる外交攻勢をかけているのは認めるが、足元の経済が揺らいでいるようでは、この先はおぼつかない。その一方で次の増税プランだけは着実に推し進めている。

消費税のような大衆課税をする以上、その大衆に対する減税効果が大きい所得税、住民税の据え置きや、社会保険料の自動的な値上げこそ押しとどめるべきだと私は思う。しかし、現実にやろうとしているのは、法人税減税である。

法人税減税は、景気に直接は影響しない。給与の増額を狙ったようだが、法人税の減税分と昇給額が一致していないのは周知の事実だ。しかも法人税は利益を出している大企業に課税されるもので、国内企業の大半を占める中小企業では赤字なので、減税も関係がない。つまり、大半の中小企業では、実質賃金の上昇はない。

はっきり言うと、安倍政権の経済政策はちぐはぐであり、その効果も局所的である。野党がそこを追求するのなら分かるが、なにせ今の野党は民主党をはじめとして経済音痴。民間の動向よりも、霞が関の動向に敏感な役人出身の政治家が多いせいか、政策は読めても、現実がみえない。

だから、安倍内閣の脇の甘い女性閣僚の失態を突くぐらいしか出来ないのが、今の野党の現実。どうせ、足を引っ張るなら、従軍慰安婦問題の陰のプロデューサーの役割を果たしたと疑われる福島弁護士(当時)らを追求してほしいものである。

言うまでもないが、現・社民党の党首である福島瑞穂である。ただし彼女一人の仕業ではなく、複数の支援者というか謀略家がいるようだ。朝日新聞なんざ、彼らの道具に過ぎない。

まァ、目的は日本政府から金を引き出すことだったと憶測できるが、そのために日本を貶めた罪は大きいと思う。野党が野党を追求するわけもないのは分かるが、ことを必要以上に荒立てたくない安倍政権にも問題ある。

ところで、小渕優子の支援団体への観劇援助を寄付として捉えるのなら、当然その寄付を受けた側への課税はどうなるのだ。まさか政治活動への支援とかいって、非課税で済ますつもりなのか。

野党の追及が如何に甘いというか、適当なのがよく分かる。あのままじゃ、当分野党のままでしょうね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アギーレ監督にみえてきたもの

2014-10-22 11:59:00 | スポーツ

アギーレ監督も大胆なことをする。

前任のザッケローニはわりと日本サッカー協会の意向に耳を傾けるし、案外とマスコミの報道も気にする監督であったようだ。しかし、今度のメキシコ人監督には、その気配はない。

就任以来、4試合を重ねているが、勝った試合の印象はなく、先日のブラジル戦の大敗すら負けた印象よりも、若手のテストばかりしている印象が強い。だから試合の結果は良くない。この結果をみて、日本のサッカー評論家たちは、アギーレ批判を始めている。

相も変わらずの戦術批判が主なのだが、私のみたところ勝つための戦術なんて、特段見られなかった。いや、守るための戦術さえ明確でなかったように思えた。

むしろ印象としては、選手の選抜をしている気がしてならない。そう考えると、あのブラジルさえ選手選抜のために使ってしまう、ものすごく大胆なことをする監督ではないかと思っている。

なにせ、ワールド杯では無様な決勝戦をみせたとはいえ、あのブラジル相手に主力の本田や長友を下げ、初代表や、国際試合の経験がほとんどないJリーグの若手を登用している。こんな采配をした代表監督は初めてだ。

長期的な視野に立っての手腕だと信じてみたいが、反面その期待に日本の若手選手が答えたかどうかは、いささか微妙なところだ。柴崎や酒井といったザッケローニに頃から呼ばれていた選手は、さすがにそれなりのプレーをしてのけた。

しかし、問題は代表歴のない若手、国際試合の経験不足の若手選手たちの無様なプレーぶりが気になった。もちろん武藤のように得点までやってのけ、それなりの可能性を見せてくれた若手もいたが、他に及第点といえたのは2~3人程度だと思う。

これこそが、今の日本サッカー最大の問題だと思う。

原因は分かっている。まずJリーグのレベル低下である。具体的には外国人選手のレベル低下なのだ。かつてのJリーグには、どこの欧州の一流リーグでも活躍できる優秀な外国人選手が沢山いた。どのチームにも一人、二人ずば抜けた外国人選手がいて、彼らとの試合を通じて日本人選手は実力を磨いていった。

しかし、現在のJリーグには世界的な定評を得ているビックネームは、セレッソ大阪のフォルランぐらいだ。しかも、そのフォルランにしても年齢的には盛りを過ぎており、それは試合結果をみても分かる。

他の外国人選手も、既に年齢的には下り坂であり、無名とはいわないが、ビックネームとは程遠い選手ばかり。だから、Jリーグしか知らない若手の日本人選手は、代表に呼ばれて試合に出ても、困惑することが多く、活躍できないのが現実だ。

困ったことに、現在の日本は欧州リーグで活躍している選手を集めるだけで、チームが作れてしまう。その結果として有望な若手が国際試合で積むべき経験が不足する事態となっている。

これはACL(アジア・チャンピオンズ・リーグ)の結果からも立証されている。現在、イタリアのミランで本田が大活躍しているが、次のモスクワ大会では30過ぎの本田が主力では、とてもじゃないが戦い抜けない。

まずはJリーグ、ここから立て直しを進めていかねば、次世代の日本サッカーは見通しが非常に暗いと思う。これは誰が代表監督をやろうと、変わらない問題点である。

安直に監督批判を始めているサッカーメディアが散見するが、その程度の見識しかないからダメなのだと思います。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙戦艦ヤマト2199追憶の航海

2014-10-21 12:38:00 | 映画

少し物足りないのは、私が夢見ることが少なくなったからだろう。

1970年代に大ヒットしたアニメ宇宙戦艦ヤマトのリニューアル版である。TVで放送していたらしいが、私は知らなかった。実写版の映画が作られたのも聞いていたが、特段興味はなかった。

今回だって、台風の強風が激しくて、弱まるのを待つために映画館で時間潰しをしてなければ、まず観なかったと思う。

70年代に大ヒットした当時、私は中学生でありヤマトに熱狂していた。もしヤマト2で完結していたら、元来SF好きである私はアニメ・おたくの思春期を送っていたかもしれない。しかし、興行成績に気を良くした西崎プロデューサーが三作目を発表したことで、その商業主義に失望した私はアニメを見なくなった。

10代後半から20代にかけて、私はアニメ嫌いであった。さすがにこの年になると、それほど頑迷でもいられず、機会があれば観ている。内緒だが最近のお気に入りはケロロ軍曹だったりする。

それはともかくも、いまさらヤマトの気もないではなかったが、まずは観てみた。本来は長編アニメであり、それを短縮しての作品であることは、すぐに気が付いた。

アニメの作画技術は、70年代の旧作に比して格段に上がっているが、驚くほどではない。また旧作では唯一の女性乗組員がヒロインの森雪だが、このリニューアル版では複数の女性乗組員がいたのに驚いた。ストーリーも少し変えてあるように思えたが、大筋が変わっていたわけでないことに安堵した。

良かったのは、旧作で大嫌いな偽善的場面がなかったことだ。思い出すのも不愉快だが、ヤマトが敵であるガミラス本星を襲撃して、その都市群を崩壊させた後で古代が「俺たちはなんてことをしてしまったんだ!」と慟哭する場面である。実に厭らしい。もし本作品が松本零士であったら絶対に描かない場面だと思うが故に、この作品は西崎プロデューサーの原作だとよく分かる。

ありがたいことに、あの場面はなくなっていた。これでけでも高く評価したくなる。あれは旧作における最大の汚点だと確信しているからである。

ただ、最後の最後のあの名場面が簡素化されていたのが少し不満であった。イスカンダルからようやく帰還し地球の姿を目に捉え「地球か、なにもかも懐かしい」と呟き家族の写真を手にして死んでいく沖田艦長と、それに気が付いて最敬礼する佐渡医師の場面である。私にとっては屈指の名場面なのだが、あっさりと描かれていて、少し物足りなかった。

時間潰しのつもりで観た映画であったが、妙に満足して映画館を後にできた。ただ、その後だが、雨が止んだので油断して車のドアを無造作に開けたら、風に煽られてドアが急に空いて、おでこにぶつかって瘤を作ったことだけが妙に忘れがたい。あれは痛かったぞ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粗にして野だが卑ではない 城山三郎

2014-10-20 12:17:00 | 

心の背筋に一本芯が通ったような人物にお目にかかれることは稀だ。

その生き方にぶれがないことが羨ましくて仕方ない。明るい太陽の下、大通りを背筋を伸ばして堂々歩が如き生き方に、私は憧れていた。憧れたのは、私がそのような生き方から縁遠かったからだ。

どちらかといえば、抜け道を好んで通り抜ける生き方であった。陰に潜んで、通りを覗いながら、興味津々で駆け抜けるような幼少期を送っている。そのせいか、どこか卑屈さを自覚することがあり、それを厭いながらも止められないことに苛立っていた。

堅気として生きることを覚悟してからも、なかなか抜け道を好む性癖は抜けきらなかった。成績優秀な高校生を演じる一方で、酒を呑み、タバコを吹かしていないと、どこか不安であった。

だが大学でようやく私が知らなかった、明るい太陽の下を堂々と歩くような生き方をしている連中と出会えた。正直、この坊ちゃん、お嬢ちゃんたちにはかなり困惑させられたが、今私がこうして堅気の職に就き、堂々生きていられるのは、この連中の影響なしとは言えない。

表題の作品で世に広く知られるようになった石田礼助氏は、まさに心の背筋に一本芯が通った人物であろう。生まれ出でて半世紀、私の半生において悔やむべきことがあるとしたら、このような人物の下で働いた経験がないことだと思う。

せめて、少しでも近づきたい生き方ではあるが、遠いいと痛感せざるを得ないのが悔しいですね。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする