ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

稀勢の里の横綱昇進

2017-02-07 12:16:00 | スポーツ

横綱の地位は、いつからこれほど軽くなったのか。

春場所において、稀勢の里が優勝し、二十年ぶりの日本人横綱が誕生した。号外が出るほどの吉報であり、盛んにマスコミでも報じられていた。

私は稀勢の里を強い力士だと認めているが、横綱と云われると、どうしても首を傾げてします。いいのか、本当に?

近年の横綱で、その名に値するのは、貴ノ花、朝青龍、白鵬の三人だけだと私は考えています。他の横綱は、大関ならば名大関なのですが、横綱としては物足りない。

よく頑張りましたねとのご褒美としての横綱に過ぎないとさえ思っています。

稀勢の里は、その頑丈な体躯、驚異の腕力、粘り強い足腰と素材としては良いものをもっています。しかし、その繊細なハートが勝負弱さにつながり、好成績を残せずにいたのです。

今回の優勝は、最も苦手にしていた白鵬の衰え抜きではありえない。偶然でしょうが、他のモンゴル人力士も不調であり、おまけに日本人のライバルである豪栄道や琴奨菊がド不調であったことから、恵まれた優勝だとさえ思っています。

おそらく、稀勢の里は短命横綱で終わるだろうと思います。それでも一代限りの年寄株を貰えるのですから、それで良し・・・なのでしょう。

でも、長い目で見たら、相撲人気に水を差すことにならないか、私は心配ですね。

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尖閣諸島を守る意味

2017-02-06 12:40:00 | 社会・政治・一般

先進国のなかでも、日本ほど危機意識の欠落が著しい国は珍しい。

それはアメリカによる安全保障という名の、日本の軍事力骨抜き政策の結果なので、日本だけが悪いとは云わない。だが、既に半世紀が経ち、日米安全保障条約も、いささか実情にそぐわなくなっている。

敗戦後の廃墟と化した日本は、既に過去の姿であり、世界第三位の経済大国であるばかりか、その巨大な経済力を背景に、最新兵器を備えた軍隊を持つ大国であるのが現在の日本である。

ただ、かつて日本と戦い、散々苦労したアメリカは、日本に対する手綱を緩める気がないため、日本の軍隊は事実上在日アメリカ軍基地護衛部隊及びアメリカ艦隊護衛及び支援組織と化している。

一国の軍隊としては、かなり歪な組織であるのが、自衛隊と称する日本軍の実態である。

ところで、日本を事実上軍事的従属下に置いているアメリカにも悩みはある。これまでのように日本を兵站及び護衛に留めるか、あるいは補助戦力としてアメリカ軍の傘下に迎えるか。アメリカ国防省でも、未だ統一見解は出ていないのが実情だ。

そこに現われたトランプという異質の大統領が、事態をますます混迷化させている。アメリカ軍にとっては、自国の防衛上、太平洋の端にある日本列島は極めて重要な拠点である。なかでも沖縄基地は、アメリカ国外にある基地のなかでは、最大の兵站拠点である。

また横須賀や呉には、高度な技術を持つ工場が多数あり、アメリカ軍はここで補給、修理を受けられることの有効性を痛感している。サンチャゴの基地で補修を受けるより、日本で受けたほうがより良い結果が出ることは、アメリカ軍関係者の間では周知の事実である。

このような現実を認識していれば、日本列島の軍事拠点を失う訳にはいかない。もし日本との関係が悪化して、基地を退去するならば、その兵站拠点を破壊して、次なる敵に渡さない程度の防衛措置は当然であろう。

アメリカ国防省も、日本の防衛省も決して公には認めないだろうが、戦争に真面目なアメリカには、そのような覚悟と準備があることは当然である。状況次第でアメリカは、日本を攻撃する用意がある。このことは、当然のこととして認識しておくべきだ。

でも、可能な限り、日本列島を活用したい。だからこそ、今回来日したアメリカのマティス国防長官は「尖閣諸島を守る」と公言したのだ。日本列島から沖縄、台湾に至るラインは、アメリカの防衛ラインでもある。それを守ると宣言した浮ウを、日本はどれほど感じているのだろうか。

私にはマティス国防長官の発言から、この重要な防衛ラインを敵に渡すぐらいなら、使えなくしてやるとの本音が透けて見えて仕方なかった。アメリカは怖い国である。その怖さは、シナや北朝鮮の比ではない。

マティス国防長官の発言に安堵している場合ではないと思います。

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累犯障害者 山本譲司(続き)

2017-02-03 12:37:00 | 

私は二十代の初めに難病に罹患し、9年余りの闘病生活を送ってきた。

複数の病院を転々とし、最後はある大学病院の世話になった。そこには同じ難病を抱える人たちと知り合う機会を得た。私は完全には治らず、自宅療養に切り替わり、何度かの再入院を繰り返しながらも、30過ぎて社会復帰を果たした。

その後も、同病の人たちに関心を持ち、インターネット上でのサイトを中心に交流を深め、オフ会の幹事も数回やっている。延べにしたら、数十名の難病患者と直に会っている。その頃から、漠然と感じていたことがある。

なんとなく、口に出すのが憚れたので、黙っていたが、表題の書を読んで、我が意を得たりと納得したことがある。それは、障害者の常識と、健常者の常識は、必ずしも同じでないことだ。

私が罹患した難病は、大きく分けると幼少期に発病したものと、成人後に発病したものがいる。治りやすさからすると幼少期の方なのだが、反面多感な時期に病に苦しむせいか、通常の子供とは異なる成長を辿るようだ。

「院内学級」というものがある。早期に治った子供はともかく、長期間の闘病生活を送る子供のために、病院内に設けられた教育の場である。ここへ通った子供たちにとって、学校とは院内学級を指すことが多い。

普通の学校では、体育に参加できなかったり、薬の副作用をからかわれたりと、子供にとって嫌な思いをすることが多い。でも、院内学級に行けば、同じ思い、同じ苦しみを知る仲間がいる。

私のみたところ、その院内学級の経験がある子供たちは、成長して病状が安定して大学に進学したり、就職して会社に入っても、どうも健常者とは微妙な違いがあるように思えてならなかった。

うまく表現できないのだが、非常に繊細な人が多く、思い込んだら一途な反面、融通のなさや非寛容性を感じることが何度もあった。これは大人になってから発病した私のような者には感じられない特徴であった。

何度か話してみて、その原因が院内学級で過ごした時間にあるように思えてならなかった。正直、その差異が原因でオフ会で揉めたこともあり、少し嫌気がさして、もう関わらなくなって久しい。

だが、表題の書のなかに、障害者の常識と、健常者の常識の差異があることを指摘している文を読み、そうだったのか、やはり、そうだったのかと納得した次第である。

同時に、その差異が非常に深く、深刻な亀裂であることを思い出し、問題の難しさに呆然としてしまった。障害者が自覚する常識と、世の多数である健常者との常識が乖離している以上、健常者の常識で裁かれることに、障害者が違和感を持つのは当然だ。

でも、抗議の声は届かず、徒労に過ぎないことを誰よりも知っているのが障害者である。ここで、政治は何をやっているのだと怒り、福祉行政の怠惰を非難することは容易い。だが、そんな安易な抗議だけで解決する問題なのか?

民主主義社会に於いては、マスコミの報道が有権者に与える影響は大きい。これまで、障害者が関わる重要な犯罪について、自主的に報道を渋ってきたのは、他ならぬマスコミである。

それが障害者への偏見や差別を助長しないようにとの配慮であることは、私でも理解できる。だが、このままでいいのだろうか。欧米を中心にした調査では、障害者の割合は、全人口の2~3%だとされている。

ところが、日本ではその数が少なくカウントされている。しかし、研究者の調査では欧米と大差がないことが判明している。これは、日本においてカウントされているのは、障害者手帳の交付者だけであるからだ。

つまり障害者手帳の交付を受けていない障害者がかなりの数(おそらく数十万人)居ることを意味している。彼らは行政の保護にもかからず、なにか問題を犯しても、圧涛Iな不利な立場で刑務所に収監されてしまう。そして、出所しても行先がなく、再び罪を犯す。ここに累犯障害者が生まれる。

臭いものに蓋をして、見て見ぬふりをすることで解決する問題ではない。高齢化社会を迎え、福祉の保護の枠に放置された障害者たちの問題を、どうしたら良いのか。

もっと多くの人たちが関心を持つべき問題だと思います。

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累犯障害者 山本譲司

2017-02-02 13:18:00 | 

野性の世界では、適者生存の原則が厳しく貫かれている。

強いものが正しいとされ、生き残ったものが正しいと結論付けられる。だから野生の世界では、心身に欠陥があれば、自然と淘汰されてしまう。残酷なまでに透徹した生存競争の原理が存在する。

しかし、人間は違う。社会性が強いだけでなく、食料の備蓄、共同作業など複雑な集団社会を作れる人間の世界では、多少の心身上の欠陥があれど、集団の構成員から助けられることにより生きることが可能になる。

本来は生存が難しい障害者が、社会の助けにより生きていける。それだけでなく、子孫を残すことも出来る。だからであろう、人間という哺乳類には、障害者の割合が高い。他の種では、これほど多くの障害を抱えた同族を抱えることは無理だろう。

でも、やはり無理というか、不自然さが付きまとう事実は無視できない。

正史に記載されることはないが、彼ら障害者が社会のなかで置かれていた立場は、決して明るくはなかったのが実情であろう。表題の書でも取り上げられていたが、女性の知的障害者の場合だと、売春宿に囲われていることは少なくなかったはずだ。

それは福祉的な保護政策があるはずの現代日本でも、なくなることのない不愉快な現実である。いくら行政が保護しようとしても、肝心の女性が、施設や家庭よりも、自分を可愛がってくれる男たちが訪れる売春宿にいることを幸せだと思ってしまう。

それを搾取している男たちがいるのも確かだが、自分が一人の女として男の腕の中にいるほうが楽しいと当の女性が本気でそう思っている以上、行政ができることは限られてくる。

男の場合なら、健常者が嫌がるような汚れ仕事を押し付けられているケースも散見する。それを差別だと誹謗することは容易いが、その一方で健常者が普通に出来る仕事が出来ず、無理にやればミスをして叱られる。それならば、汚れ仕事のほうが幸せだと考える障害者のほうが、まともな判断に思える。

福祉行政は、差別には敏感だが、だからといって解決策をもっている訳ではない。それどころか、福祉行政の枠からはみ出ている障害者の保護には無力でさえある。

その典型が犯罪を犯して収監されてしまった障害者である。彼らの多くは罪の意識はなく、そもそもなにがいけないのかさえ十分理解していない。そして更に不幸なことに、出所してもその犯歴ゆえに福祉行政の枠に入れない。

だから、野宿し、放浪し、辛い思いをするのなら、再び同じ犯罪を起して刑務所で人生を過ごすことを願うようになる。それが表題の書のタイトルでもある累犯障害者だ。

この書には、私も知らなかった障害者の世界と、健常者の常識との違いが、痛ましいほどに書かれている。まさか、聾唖者にとって、手話は必ずしも理想的なコミュニケーションの手段ではないなんて、思いもしなかった。

手話を理解できない聾唖者は少なくなく、そのような障害者が罪を犯し、裁判にかけられた場合、まともな公判が維持できない。手話通訳者が裁判官にむかって、被告に裁判の意図が伝わっていないと伝えているなんて、笑えない喜劇である。

そして、なかなかマスコミは報じたがらないが、障害者により構成された暴力団、詐欺組織が実在し、同じ障害者たちを食い物にしている残酷な現実。

いかに悲惨な事件であろうと、そこに障害者が関わっていると、報じることを自制してしまうマスコミ。その趣獅ヘ分かるが、それでいいのかとの疑問が生じるのも確かである。

著者の山本氏は、かつて国会議員で会った時に、秘書給与搾取事件が露呈して、実刑を受けて刑務所に収監された過去を持つ。その頃から、刑務所内で出会った障害者たちに関心を持ち、その問題を追及している。

山本氏もそうだが、私もこの問題に対して、絶対的な解決策を持っていない。それでも無関心ではいられない。

もう少し、書きたいことがあるので、次回に続きます。

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ドクター・ストレンジ

2017-02-01 12:00:00 | 映画

これこそ、3D技術とコンピューターグラフィックの見事な融合だと思った。

映画「アバター」により一気に広まった3D映像ではあるが、度が過ぎた技術は、むしろ映画の鑑賞の邪魔になることがある。あまりに立体化映像に拘りすぎるると、観客が気持ち悪くなることがある。

私自身、何度か経験している。そのせいか、最近の3D映画は、控えめな3D処理で済ませているケースが多かったように思う。その方が、私としても快適に映画鑑賞が出来た。

しかし、技術の進歩は少しずつ進んでいる。この映画に関しては、その驚愕のCGと3Dにも関わらず、観ていて不快に感じることはなかった。相当に奇天烈な映像であり、その驚愕のCGは、それだけで観る価値がある。実際、凄いゾ。

実は私、アメコミではそれなりに有名で人気のある「Drストレンジ」の事はまったく知らなかった。アヴェンジャーズの一員らしいのだが、予備知識はまったくないまま、この映画を観た。

アメリカ人が思い描く東洋の神秘をアメコミ風にアレンジすると、あんな感じなのだろうかと、いささか否定的に観ていたのは事実だ。だが、そんな背景や、設定のことなんざ、頭の片隅に置いて、まずはこの驚異の映像を堪能すべきだと思う。ただ、それだけに価値がある。

まァ、シナリオとか演技とか、いろいろあるんだろうけど、私はそれらはすべて端折って、この映像だけで十分楽しめましたよ。

なお、この映画は是非とも映画館で、それも出来たら3Dで観て欲しい。いや、3Dでないと意味がない。お財布に余裕があれば、MX4Dでも、IMAXでも良し。でもDVDで自宅の大画面4KのTVであっても、映画館での迫力には、到底及ばないと断言できます。

是非、映画館でご鑑賞下さい。

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