せめて土の上で死なせてあげたいな。
やたら、雨の多かった8月も終わり、まだ残暑は残るものの、既に秋の兆しが感じられる今日この頃である。
私の住まいのあたりは、木々が多く、夏になるとセミの鳴き声が喧しい。困ったことに、夜になっても、灯りの灯った共用廊下などで、夜更けまで鳴いている。正直、ちょっと迷惑に思う。
だが、9月に入ると、セミの亡骸が共用廊下に落ちていることがよくある。そんな時、私は亡骸を拾い上げて、植栽されている共用の庭に放り投げておく。
セミは数年間、地中で暮らし、最後の数週間を地上で過ごす。生涯の全てを賭けて、地上に上がり孵化して、樹液をすすりながら鳴き声を上げる。あまりの喧しさに悲壮感は乏しいが、それでも夏の終わりに見かけるセミの亡骸には、生涯の最後を力強く生きた生き様を感じることがある。
なればこそ、その亡骸は土の上に置かれるべきだ。アリなどに食われるかして、その亡骸はあっというまに姿を消す。だが、その亡骸は次の世代を育む滋養となって、土に浸み込んでいるものだと私は信じている。
だから、コンクリの床の上に転がるセミの亡骸を放置することは出来ない。
セミを煩いと思う人もいるだろうけど、私はセミの鳴き声のしない夏は、寂しくてやり切れない。これまでの半生で一度だけ、セミの鳴き声を、ほとんど聞かずに終えた夏がある。
難病で、ずっと大学病院の病棟で過ごした夏。あれは、わびしくて、つまらなくって、哀しい夏であった。もう、あんな夏は経験したくないな。
死刑に反対する人は多いと思う。
だが、日本の場合、死刑を廃止すると仇討が復活してしまう可能性が高い。だから死刑制度は必要だと。
少し極論に思えたが、今でも仇討を良しとする感情はけっこうあると思う。もっとも、これは日本だけでなく、世界各地でしばしばみられる感情だ。
私自身、死刑よりも敵討ちのほうが遺族の思いに添うのではないかと考えていた。死刑と遺族による敵討ちの選択があっても良いのではないかと考えたこともある。
だが、表題の作品を読んでみて、私は自身の短慮を恥じた。敵討ちがこれほど過酷なものであったとは思わなかったからだ。考えてみれば、敵討ちが認められた時代ならば、相手もまた自分が敵討ちの狙いにされている自覚は当然にあるだろう。
だからこそ姿を隠すし、場合によっては反撃に出ることもあっただろう。そのような相手を探し、なおかつ唐ウねばならぬ。敵討ちをお上に届け出た以上、それを果たさねば、郷里に帰ることもままならない。
その結果、敵討ちの相手を探すだけでも数十年、それでも見つけられず、心が折れて不遇の人生を送った人も多かろう。また、せっかく遭遇できても、相手から返り討ちにあった場合もあるだろう。
その一方で、敵討ちに生涯狙われていると自覚し、それに怯えて暮らす相手の人生も悲惨である。気力、体力が充実しているうちはいい。しかし、老齢を迎え衰えた吾が身で、敵討ちに狙われて、警戒し怯えるのは心身ともに辛い。
近代の刑法が、敵討ちを禁止し、替わりに死刑制度を設けたのも、むしろ当然なのかもしれない。死刑制度の方が遥かに公平だし、受刑者にも、被害者遺族にも寛容な制度なのだ。
愛する家族を奪われた悲しみと怒りは、何時の時代、どの社会でも共通のものです。だからこそ、敵討ちを求める気持ちは普遍的なもの。されど、敵討ち自体は、確実でもなく、運任せの不平等な結果に終わることが少なくない。だからこそ、死刑制度が求められた。
死刑制度に反対な人は、是非とも一読して欲しい一作だと思いました。
経験してみないと分からないことって、けっこう多いと思う。
プロレス好き、プロレスごっこ大好きな私であったが、本物のプロレスラーとは喧嘩はもちろん、実際に組み合ったことさえない。でも、そばで観ているだけでも、あの肉厚の身体から発せられる威圧感で、その強さは分かる。
プロレスラーの強さを分かっていると思っていたが、それは思い違いに過ぎなかった。
大学時代、体育の授業の前後に、アマレス部の同級生と高跳び用のマットの上で組み合ってみて、その凄さの一端が分かった。なにが凄かったて、その引き込む力である。
首の後ろに手をかけられた瞬間、凄まじい圧力で押し潰された。首から腰までの体幹の部分を完全に抑え込まれて、まったく動けなくなってしまった。あの引き込む腕力の強さは、柔道とも空手とも違う異質の強さであった。
レスリング経験者に組まれてしまったら、素人ではもうどうしようもない。アマレスでこれだから、プロレスラーともなれば、あれ以上の力なのだろう。あの抑え込まれて、まるで動きがとれない絶望感は、経験してみないと分からない。
もっとも、プロレスの世界ではアマチュア・レスリングは地味な扱いとなる。もちろんレスリングが基本であり、メダリスト級のプロレスラーはかなり居たが、正直地味なタイプが多かった。
決して弱かった訳ではないと思うが、地味過ぎてその強さが観客に伝わりにくかった。だから、アマレス出身のプロレスラーは自己表現に苦労していたと思う。ただ、依怙地な職人タイプが多く、地味なままで変わろうとしない頑固者が多かった。
その典型とも云えるレスラーが、今回取り上げる木戸修だと思う。
最近の若い人だと、美人女子ゴルファー木戸愛のお父さんといったほうが通りがいいらしい。少し残念に思わないでもないが、実際地味なプロレスラーであったので、無理ないかもしれない。
一応ヘビー級のプロレスラーであったが、正直ジュニアクラスの体格であった。ただ、肉厚の筋肉であるがゆえにヘビー級となっていた。だから小柄なヘビー級であったことも地味の一因となっていた。
しかし、その実力はヘビー級の大型レスラーに引けをとらなかった。あれはタッグトーナメントであった。腕相撲世界一の剛腕スコット・ノートンの相方M・ヘルナンデスが怪我で休場となった際、ノートンが指名したのが木戸修であった。
そして、この急造タッグコンビは、あのロード・ウォーリアーズの連続優勝を阻んでしまう活躍を見せたのだった。小柄な木戸が、超大型の外人プロレスラー相手に、得意の関節技を次々と極めて、相手を追い込んでいくさまには驚愕したものだ。
これだけ高い実力を持ちながら、木戸は常に控えめで、自分を売り込むようなことはせず、リングの上でいぶし銀のプロレス技を披露することで満足していた。まさにプロレス職人であった。
どうも胡散臭い。
ヨーロッパの自動車メーカーが、2040年までにガソリン及びディーゼルエンジンを搭載した自動車の製造を止めて、EV(電気)自動車へ移行すると発表したのは既報のとおり。
私はどうも、この動きを素直に信じられない。現代文明は、石油消費型文明である。その代表とも云えるのが石油を燃やして動く自動車である。社会のインフラと言ってよく、そうそう簡単になくすことなんて出来ないと思う。
にもかかわらず、アメリカも日本も石油を消費しないタイプの自動車の開発に余念がない。その一つが電気自動車であり、もう一つが水素自動車である。どちらも未完成の技術であり、そのつなぎがハイブリッド車だと理解していた。
しかし、フォルクスワーゲン社のディーゼルエンジンの不正問題が、状況を大きく変えたように思う。都市内での使用が多い日本と異なり、欧米では遠距離移動が中心なので、ハイブリッド車よりも、ディーゼルエンジンのほうが効率が良かった。
しかし、ディーゼルエンジンの排ガス規制はあまりに厳しく、どの自動車メーカーも対応に苦慮していた。規制に応じたエンジンだと、快適な運転が阻害される。
いくら排ガス規制をクリアしても、走りの性能が低下したのでは車は売れない。だからこそ、VW社を始め多くの自動車メーカーが不正に手を染めた。この不正、どうも報じられている以上に根が深いように思う。
どうらや欧州の自動車メーカーの大半(一部日本の会社も含む)が、この不正に加担していたようなのだ。その背景にあるのは、ディーゼルエンジンの環境規制対応の難しさである。
技術的な問題と、コストの問題を両立させるのが難しい上に、車のエンジンとしての満足のいく出来ではないことが、不正に加担なさしめた理由であるようなのだ。
では、ハイブリッドエンジンは? どうも嫌らしい。基本的な特許の多くが日本企業に抑えられていることが納得できないらしく、ならば一層のこと、EV(電気自動車)で、自動車市場を埋めつくしてしまおうと考えているっぽいのだ。
ゲームに勝つには、ルールを自分たちに有利に設定してしまうのが一番だ。ヨーロッパによる近代化の歴史とは、このルール作りの主導権を握ることによって達成されている。
自動車だけではない。船舶、鉄道の主な基準は全て欧州で決められている。長さや重さなど度量衡についても欧州主導である。海図、航路図、航空地図も同じである。ルールを支配することで、ゲームを有利にもっていくのがヨーロッパの手管であった。
日本が得意とする分野では勝負させず、自分たちが有利に運べるルールに持ち込んで、市場での優位を確保したい。そんな思惑が透けて見えるのが、自動車エンジンの製造停止ではないかと私は勘繰っている。
これは経済に限らず、オリンピックなどでもしばしば為されてきたことでもある。
ふん! 日本企業の柔軟さを思い知らせてやるぞ。 まぁ、日本の近代化なんて、欧米の定めたルールに苦しみながら、そのルールに対応し、かつ追い越してきたのだからね。
群れを作る動物たちを観察するのは、非常に興味深い。
犬でも猿でも、幼い子供が悪さをすると厳しく叱りつける。猫でさえ子猫を強く噛んで、してはいけないことを教え込む。ただし、大怪我をさせるような体罰は決してしない。あくまで躾けとしての体罰である。
ちなみに、幼い時にこの体罰を受けていない子犬や子ザル、子猫は大人になってからのコミュニケーションが下手になる。特に人間に幼い時に飼われ、大人になってから野性に戻された場合、群れに戻ることは極めて難しくなる。
現在、世界各地の動物園や動物学者、自然公園の管理者の間で、如何に野性に戻すかの研究と実践がされている。そこで問題になっているのが、可愛いからと人間に売られ、飼われていた元ペットである動物を、如何に野性に戻すかである。
あまり人間に懐かない種、例えばライオンとかはまだいいが、懐きやすいチーター、ゴリラ、オランウータンなどは、野生の同族とのコミュニケーションが上手くいかないことが少ないくない。
チーターの母親は、言うことをきかない子チーターを噛んで、ダメだと教える。その噛む強さは絶妙で、怪我はしないが、十分に痛みを伴う力の入れ具合である。これが人間には出来ない。
言葉を持たない動物にとって、噛むということは重要なコミュニケーションとなる。私は初対面の犬と仲良くなる際には、犬に私の腕を噛ませてみる。最初は強く噛むが、我慢していると力を弱めて、舐め返してくれる。
噛んでも怒らない相手、遊び相手だと認めてくれたのだと私は思っている。でも、この噛み具合を知らない犬には浮ュて手が出せない。幼い時に兄弟の犬たちと、じゃれ合い、噛み合った犬なら大丈夫。でも、それを知らない犬は手加減というか、噛み加減が下手くそなので、こちらが大怪我をする可能性がある。
痛みは、自分の身で実体験しないと理解できない。
これは、動物であろうと、人であろうと同じである。最近の傾向として、日本では体罰厳禁となっている。特に学校教育では、体罰はほとんどされていない。
その結果、叩かれる痛み、殴られる痛み、蹴られる痛みを知らない子供が増えてしまった。特に強い子ほど、その痛みを知らないから、加減が下手くそで、子供同士の喧嘩で大怪我をするケースもあるほどだ。
困ったことに、体罰禁止に縛られた教師は、暴力的な子供を御することが出来ない。幼い子供でも、話せば分かることは十分ある。しかし、話したって分からない、分かりたくないこともある。
私自身がそうだった。随分悪さをして、教師から睨まれた子供であったせいで、よく怒られたものだ。長々と説教されたり、反省文とやらを書かされたこともある。
でも、断言するけど、あれは無意味。私は説教を聞いているふりして、脳内で空想の遊びをして、やり過ごす名人であった。本を読むのが好きであった私は、もっともらしい反省文を書くのは得意であったが、反省なんざしちゃいない。ただ、やり過ごすだけである。
そんな捻くれた私が一番恐れ、かつ尊敬していたのは体罰を厭わない教師であった。
中学の技術担当の教師であったM先生の得意技は、拳骨飴であった。授業が始まるまでに着席せず、廊下で遊んでいた私ら悪ガキ4名を教壇に呼び寄せる。そして時間を守らなかったお前たちには、先生の拳骨飴を食わせてやると宣言した。
次の瞬間、M先生の拳骨が私たちの脳天を直撃した。
眼から火花が飛ぶというか、お星さまがキラキラ瞬いたと思うほど痛かった。あまりの痛みにへたり込んだ。
M先生は私たちを立たせ、席に戻りなさいと云って、授業が始まった。先輩から聞かされていた伝説の拳骨飴の威力は、想像以上であった。以来、私たちはM先生の授業に遅れたことはない。
M先生は怒って体罰をしたのではない。私らが悪いこと(時間を守らない)をしたから罰したのだ。そのことが私らには分かっていた。ちなみに、誰ひとり怪我はしていない。M先生は長い説教なんて、したことがない。拳骨一発終われば、後は誰区別なく平等に接してくれた。
一発、拳骨喰らわせてお終いである。
どんな理路整然とした説教よりも、M先生の拳骨のほうが効いたと思う。
M先生は、一年の終わりに他校へ転勤となってしまった。その最後の日、校舎の出入り口から校門まで、かつてM先生の拳骨を喰らった生徒たちが列をなして、別れの挨拶をした。泣いている生徒もいた。
体罰当然の中学校であったが、M先生の拳骨は別格であった。怒るのではなく、叱るでもなく、拳骨一発で問題解決させる稀有な先生であったと思う。私らにとっては、M先生の拳骨を喰らうことは、一種の勲章であった。
M先生が素晴らしかったのは、怒っての体罰ではなかったことだ。事実、まったく声を荒げない人で、淡々と罰する理由を述べて、その後に拳骨一発である。
放課後、相談に行けば親身に話を聴いてくれたし、授業も教科書に沿って、要点を絞った上手な教師であった。人気があったのも当然である。
今となっては、このような先生はいないのだろう。体罰は、使い方、使い手次第では有効な教育手段だと私は自分の体験から確信している。しかし、今の先生たちには無理だろうと思っている。
今どきの先生は、自身が体罰を受けた経験に乏しいから、生徒を傷つけないような体罰が出来ないと思う。大人が子供に暴力を振るうのは、思いの外難しいものだ。この手加減は、理屈ではなく、体得するものだ。
その上、生徒を怒るのではなく、叱るのであるが、怒りを抑えきれぬ先生は少なくない。私らがM先生に心服していたのは、M先生が怒って体罰をしたのではなく、私らが悪いことをしたからだと納得させていたからだ。
しかも、それを短い言葉で、反論の余地もないほど明確に示し、その上で体罰である。あの頃でも、これが出来る先生は少なかった。ほとんどの教師は、怒りを抑えきれず、それを生徒に見透かされていた。
一番拙いのは、怒りの発散としての体罰である。今も昔も、このタイプの体罰が多いのではないかと思う。そして、昔より悪いのは、生徒を怪我させずに体罰をする技術が未熟な教師が大半であることだ。
これでは、体罰禁止だと騒がれるのも無理はない。
でも、私は一律の体罰禁止は間違っていると思う。人間は暴力を嫌うが、人間から暴力がなくなることはない。それは歴史が証明している。犬や猫でさえ出来る適切な体罰を、人間様が出来ないとは、おかしなことになったものです。