もしかしたらトランプ大統領は、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
イスラエルの首都をエルサレムだと宣したことで、世界中のイスラムを敵に回してしまった。しかし、それは既成の事実を公式に承認しただけであり、エルサレムにアメリカ軍を派遣した訳でもないし、どこぞのイスラム国家に爆弾を落とした訳ではない。
だが、エルサレムはただの古代都市ではない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という現代社会に広く普及している宗教の聖地である。
宗教の恐ろしいところは、論理や道理ではなく、信念に支えられていることだ。神の正義を土台にしているだけに、神の意向に反するものは、すべて悪である。悪との妥協はありえず、徹底的に悪を滅ぼすことこそ、神の恩寵だと信じている。
人類は生まれて文明を築いて以来、最悪の戦争が宗教戦争である。
だからこそ、近代は神の権威を政治から遠ざけた。この英断により、欧州を悩ませた宗教戦争に終止符を打った。だが、その前に信仰の自由を求めて新大陸に渡った人たちが、原住民を排除して建国したのがアメリカだ。
自由の国、アメリカというが、正確に云うならば信仰の自由の国、アメリカである。もっと精密に言ってしまえば、キリスト教内における信仰の自由であった。プロテスタントたちが、自らの信仰の自由を求めて作った国がアメリカである。
もっとも表向きは、自由と平等を謳ったが故に、新教徒だけでなく、カトリックの入植者も認めざるを得なかった。プロテスタントの為の自由であったのだが、いつのまにやら民主主義に基づく自由と平等が表看板となった国、それがアメリカである。
アメリカの本質の一つは、キリスト教原理主義である。
ウソだと思うのならば、過去のアメリカ新大統領の就任式を観てみることだ。選挙で選ばれた大統領は、皆必ず聖書を胸に就任している。この先、女性大統領やラテン系の大統領が誕生することはあれども、非キリスト教徒の大統領が就任することはないだろうと思う。
そう考えれば、アメリカがイスラムと対立するのは必然であり、当然でもある。
だが、歴代の大統領は決してイスラエルの首都については、曖昧な態度に終始した。アメリカ社会におけるユダヤ人脈は、政界、財界だけでなく、広告業界、映画業界、TV業界などにも広く深く根を張っている。それでも、中東和平のために、その仲介者としての立場を守るために、敢えてユダヤ人社会の要望に応じなかった。
アメリカの後見なしに、イスラエルという国は存続しえない。だからこそ、ユダヤ人はアメリカとの結びつきを深めてきた。マフィアを攻撃した大統領はいても、ユダヤ人社会を攻撃した大統領は居ない。それがアメリカだ。
しかし、現実に国際社会を鑑みれば、世界人口の最大多数派がイスラムであることは厳然たる事実だ。石油の過半を握るのも、イスラム国家であることも、無視できない現実である。
だからこそ、エルサレムではなく、テルアビブに大使館を置いてきた。あくまでイスラエルの首都はテルアビブであるとみなしてきた。
それでも歴代のアメリカ大統領は、あくまでイスラエルの首都はテルアビブだとしてきた。それは中東和平の為の苦渋の判断であったはずだ。
そこに登場したトランプ大統領は、遂にイスラエルの首都はエルサレムだと公言してしまった。事実を追認しただけだとは思うが、「王様の耳はロバの耳」と言ったに等しい行為である。
イソップ童話では、王様の目が覚めることとなるが、現代社会ではそうはいかない。
アメリカがここまで露骨にイスラムの面子を潰した以上、そこには底知れぬ憎悪がイスラム社会に生まれることは避けられない。
それは今更だと思う人も多かろうと思うが、宗教上の面子を潰したことは、根が深い憎悪となる。これは浮「。
私はそう遠からぬ未来において、中東に強力な反米国家が生まれるのではないかと予測している。その本拠地はサウジアラビアではないかと思う。これまで一世紀以上にわたり、アメリカと親密な関係にあったサウジである。
同時にアルカイーダのヴィン・ラヴィンの発祥の地でもある。サウジアラビアの皇太子はイスラム社会の盟主の座を欲していると思える。これまでサウジは石油輸出のプライスリーダーであったことはあっても、政治的な地位はエジプトやイラン、トルコに遠く及ばないものであった。
当然である。サウジアラビアとはサウード家のアラビアに過ぎず、さして伝統を持たぬ地方王家であったからだ。しかし、生まれた時から王侯貴族の生活に染まったサウード王子は我こそがイスラムの盟主たるべしとの意識が強いらしい。
未だ解決していないカタールへの経済封鎖も、その意識の表れであるようで、かなり剛直な性格であるらしい。叔父や兄弟らを不正疑惑で逮捕したりと、サウジ王家は大騒ぎ。王たる父親の影も見えないあたりが、なんとなく不気味ではある。
しかしながら、いくら王子が粋がろうと、サウジがアメリカの軍事力の傘に隠れている事実は変わらない。これでは、決してイスラム社会の盟主には成りえない。
情報が漏れにくい国ではあるが、サウジ国民の反アメリカ感情はかなりのものであるらしい。それを王家が抑圧してきたのだが、今回のトランプのエルサレムの首都公認が誘い水となり、サウジの未来を大きく変える気がしてなりません。
これは怖いですよ。北の刈り上げデブ君とは財力も軍事力も桁外れ。21世紀の大きな火薬庫となりそうな気配、濃厚ではないかと思います。
褒められると、人は案外と本音を語り出す。
2017年のノーベル平和賞が、NGOであるICANに贈られた。核兵器の廃絶を訴えてきた団体である。核兵器の非人道性、その異常な破壊力と放射能の恐ろしさを人々に伝えて、残虐な核兵器を廃棄しようと努力している団体である。
広島、長崎という実際に原子力爆弾を使用された国の人間として、核兵器の非道さを訴える気持ちは理解できる。
某ホテルのロビーで、TVを視ていたら、この受賞関連のニュースで非認定NPOのピースボートの関係者が出てきて、誇らしげに語っていた。良く見ると、ホームレスの擁護でよく出てくるプロ市民であった。
自分たちがノーベル賞を受賞したわけでもないのに、イイ気になって語っているのが滑稽だ。誰でもそうだが、人間って褒められると、日ごろ口にしない本音を出してしまうことがある。
このプロ市民さんも、日ごろのうっ憤を晴らすかの如く、ペラペラと本音を曝け出してくれるので、興味深く見ていた。もっとも、その内容は十年一昔で、相も変らぬ脳内お花畑で奏でる、無責任な平和妄想を垂れ流すだけの空虚なものに過ぎなかった。
やはり、現実を直視する勇気はないようだ。
核兵器が非道であろうと、絶対悪であろうと、戦争を抑止する役割を果たしている。自国をなにがなんでも防衛したいと考える政府及び軍部にとって、核兵器ほど頼りになる防衛兵器はない。
そう考える人が少なくないからこそ、既に核兵器を持っているアメリカなどの反対を押し切って、核兵器を保有する。そんな国が増えているのが現実であろう。公表はしていないが、イスラエルや南アフリカなどは既に保有していると思われている。
パキスタンとインドは互いに核兵器を持つが故に、大規模な戦争は出来ずにいる。核兵器の持つ恐ろしさは、確実に戦争を小規模なものに押しとどめている。それが、反核論者には認めがたいとしても、厳然たる現実である。
そして皮肉なことに、あるいは残酷なことに、反核兵器運動が核兵器の悲惨さを世に知らしめる活動をすればするほど、その恐ろしい核兵器を自国を守るために欲しいと欲する国がある。
もし核兵器が廃絶される日が来るとしたら、それは核兵器を無効化する兵器が出来た場合と、核兵器を遥かに上回る非道で残虐な兵器が出来た場合だと思う。
兵器を作るのも人間だし、兵器を使うのも人間だ。その兵器に罪はない。兵器は、所詮道具に過ぎない。人が他人と争う生き物である以上、兵器に罪をかぶせても、戦争はなくならないと思います。
木の枝を齧った時の味がした。
それが初めてルイボスハーブティを飲んだ時の印象であった。30年ほど前、まだ自宅療養中の時であった。近所の生協でたまたま見かけた紙パック入りであったと記憶している。
正直言って、美味しいとは思わなかったが、夏場であり、さっぱりした飲み心地は悪くないと思っていた。ただ、人気があるのか、ないのか良く分からない。売られていないことも多く、見かけたら買う程度であった。
その生協が閉店してからは、まったく忘れていた。
人間って不思議なもので、若い頃には好まなかったものが、ある程度年齢がいくと好ましく思えることがある。
私の場合、お煎餅と日本茶がそうだ。
決して嫌いではなかったが、煎餅を自分で買ったり、家でお茶を沸かすことは40過ぎまでなかった。外で出されれば、煎餅も食べるし、日本茶もいただく。それはマナーの問題だと考えていた。
一方、家のなかでは自分の嗜好こそが第一であったから、好きなものしか食べない、飲まない我儘ものであった。母が生きていた頃は、実家で夕食をとることが多かったので、あまり好きではない味噌汁やお茶も飲んでいたが、自宅ではなかった。
ところが、母が寝たきりになり、自分で夕食を作るようになってから、なぜか味噌汁や日本茶を自分で作るようになった。特に50を過ぎてからは、味噌に拘ったり、新茶を探してきたりと、若い頃にはあり得なかったことをするようになった。
ルイボスハーブティを再び飲むようになったのも、その一環だと思う。冒頭に木の枝と書いたが、木の根っこのほうが近いかもしれない。敢えて云えば、ゴボウ系の味である。
ルイボスの木は針葉樹のような葉で、マメ科の植物。主にこの葉の部分を乾燥させて、お茶の葉にするらしい。南アフリカ原産なのだが、ケープタウン北のセデルバーク山脈の一部でしか育たない。
その一帯は乾燥地帯で、気温の変動も激しく、ルイボス以外の植物は育たない荒涼とした場所であるそうだ。不思議なことに、同じような環境でも、ルイボスは育たず、これまでにアメリカ、中国、オーストラリアが栽狽ノ挑んだが失敗している。
年々、世界各国で人気が上がっているルイボスだが、生産量は年間1万2千トンであり、今後は値上がりが予想される。私はいずれ、どこかで栽狽ェおこなわれるとみているが、それが日本の農家だったら嬉しい。
でも国内に乾燥地帯は乏しく、30度以上の温度差がある場所があるかどうかも疑わしい。アメリカやオーストラリアの再挑戦を待ち望みたいですね。
自分が気が短いことを自覚したのは、かなり幼い頃だ。
基本的には大人しく、温和な性格だと思う。それは今も変わらないのだが、その一方で短気であることも変わりない。
ただ、若い頃と違って短気を抑制することは出来るようになった・・・と思う。まぁ、実際のところは9割程度で、残り一割としたのは暴発することがあるからだ。
短気は損気。分かっちゃいるけど、短気を抑えるのは難しい。元々の性分であるだけに、自動的に怒りが湧きあがり、それが拙いと思う前に手が出ている。
イイ大人のすることじゃない。そんなこたぁ、分かっているんだ。分かっていても、身体が動いちゃうから困る。
だからこそ、表題の作品を読んだ時、その終盤の緊迫した場面で失望した。
おい、なに我慢してやがる。そこは切れて良い。怒らなきゃいけないぞと十代前半の私は憤った。私ならば絶対にブチ切れていると確信していた。
山本周五郎は私の好きな作家ではあるが、この作品だけは最後の場面ゆえに好きになれなかった。
あれから40年、久々の再読である。驚いたことに私は最後の場面に納得していた。よくぞ堪えたと拍手喝采のエンディングであった。
私も変っていた。人は変わるものだ。そのことをつくづく痛感した再読でしたよ。
2003年に川崎フロンターレに入団以来、無冠の王様であったのが中村憲剛選手だ。
フロンターレは決して弱いチームではない。Jリーグでも屈指の攻撃力を誇り、リーグ戦でも上位の常連であり、優勝を争ったことも多い。しかし、優勝したことはない。シルバーコレクターとまで言われるほど二位の多いチームであった。
そのフロンターレの中心選手が中村憲剛選手だ。十代の頃は、ほぼ無名の選手であり、U15、U18、オリンピックなど各年代別の日本代表にも無縁であった。同世代に稲本や中田、遠藤といった黄金世代がいたことが、彼を無名たらしめた原因であった。
私立高校が圧倒的に強い東京において珍しく都立高校出身であり、高校サッカー選手権に出場したことが、フロンターレのスカウトの目に留まった。高校サッカーを長年観ている私も、まったくのノーマークであった。
しかし、入団以来、ずっと一軍であり、徐々にチームの中心選手となり、攻撃的なサッカーのけん引役となった。温和な性格とは裏腹に、ピッチの上ではチームを仕切る王様であった。
強気で知られたチョン・テセ選手は、その頑丈な体躯でDFをふっとばす屈強なFWだが、インタビューなどで「憲剛さん、怖いっす」と真面目に答えていた。マイペースなブラジル人助っ人のジュニーニョも憲剛には気を使っていた。
フロンターレはまさに中村憲剛のチームであり、彼の好不調に左右されるチームでもあった。でも、なかなか日本代表には声がかからなかった。当時、日本代表の中盤は黄金世代の中村俊輔らが仕切っており、憲剛とポジョションが被ることが難点であった。
しかしながら、オシム日本代表監督(当時)は憲剛を代表に呼んだ。驚いたことに、二人の中村を縦に並べて、よりダイナミックなサッカーをさせてしまった。代表デビューが二十代後半と遅めであったため、あまり目立った活躍はしていないが、優れた選手であることは間違いなかった。
それなのに、川崎フロンターレは一度もリーグ戦での優勝がなかった。私は何度となく、あと一歩及ばず、屈辱で俯く中村憲剛選手の姿をみている。優勝がかかった大事な試合で、いつも立ち塞がるのは鹿島アントラーズであった。
Jリーグが始まって以来、一度も二部に落ちたことのない真の名門チームであり、勝利の経験値が選手に叩き込まれたアントラーズは、常にフロンターレの優勝を阻んできた。
だが、2017年、Jリーグの終盤戦、首位を独走するアントラーズが後一勝で優勝なのに、引き分けを重ねた。徐々に上位を伺っていた川崎フロンターレにも優勝の芽が出てきたのには驚いた。でも、ほとんどのJファンは、アントラーズの優勝を疑わなかったはずだ。
しかし、奇跡は起こった。
勝てば文句なしの優勝であったアントラーズが引き分けた。ACLの日程の都合上、数日遅れて行われるフロンターレは勝てば大逆転での優勝決定。そして、執念の試合根性でピッチを縦横に駆け回ったフロンターレの選手たちは大勝して優勝を引き寄せた。私はピッチ上で号泣する憲剛選手の姿を忘れられない。
私はアントラーズのファンだ。でも、今回の逆転優勝に関しては、素直に川崎フロンターレを祝福したい。特にようやく、その実力に相応しい栄冠を得た中村憲剛選手を讃えたい。最後まで諦めず、逆転を信じてプレーした姿勢こそ王者に相応しいものだと思います。