孤独は心を蝕む。
私は20代の時に、多くの時間を自宅に引きこもって過ごしている。薬だけでは治らない難病のため、自宅での安静が必要であったからだ。病気療養中ではあったが、事情を知らない近所の人からすれば、イイ年の若いもんが家に閉じこもっているのだから、世間体は悪い。
だが一番悪かったのは、私自身の精神であった。
体力が衰えていたのはともかく、ただただ寝ているだけの生活は、心を腐らせる。あの頃は、大量の薬を飲むために食事を取り、服薬するとすぐに眠る。それを一日三回繰り返すのが日課であった。
あまりに退屈なので、週に一回は図書館へ通ったし、レンタルヴィデオ屋にも足を運んだ。天気が良ければ、中央線沿線の古本屋巡りをしたりもしていた。でも基本的には孤独な生活であった。
妹と同居していたこともあるが、身近な親族は時として憎しみの対象となる。妹たちが実家に戻ったのは、私との同居が辛かったのだろうと思う。些細なことで、私は激高することがままあったから当然であろう。
家族との付き合いは、夕食の為に実家に行くときだけにしていた。私自身が気が付いていた。私の心の奥底に蠢く憎悪は、身近な人間に向けられがちであることを。
つくづく人間とは社会性の強い生物だと思う。他者との交わりがない環境だと、ストレスが発散されず、ひたすら心に沈殿される。それはどす黒く、冷たく、そして重苦しい。
会社務めの頃や、学生時代は人間関係こそが、最大のストレスだと思っていたが、人間関係が希薄な家での引きこもり状態も又ストレスとなる。
経験的にこの手のストレスは、身体を酷使することである程度解消されると知っていた。でも安静を必要とする療養生活では、運動もままならない。なにせ、半日外出しただけで、二日は寝込んでしまう。
そのくらいに身体が衰弱していたのだが、反比例して心の鬱屈はグツグツと煮えたぎっていたように思う。
この心の苦しみから逃れようと、あれこれと模索し試したものだが、やはり最終的には社会復帰を果たすまでは解消されなかったように思う。
引きこもりとは、実は当人が非常に苦しんでいることが多い。私はまだ若かったから、比較的社会復帰も容易かった。だが、中高年の引きこもりが、無事社会復帰を果たすのは、相当に難しいであろうことは容易に想像がつく。
社会に居場所がないからこそ、自室に閉じ込まざるを得ないのだ。ただプライドがあるから、自室で自由を満喫しているかの如く振る舞っている。中高年のひきこもり問題が難しいのは、このプライドが大きな妨げになっている。
先週、登戸で起きた無差別児童殺傷事件や、川崎での元農林事務次官の息子殺傷事件などには、いずれも引きこもりが関わっている。
日本社会は、この中高年の引きこもり問題に対して、適切な処方箋をもっていない。つまり、似たような事件は、今後も起こることを意味している。
彼らに社会的な居場所、すなわち存在価値を与えることの他に、社会復帰の道はない。単なる厄介事と放置せず、この問題に真剣に取り組めるのは政治の課題である。
民主主義社会に於いて、社会的問題の解決は、選挙による多数決原理が絶対に必要となる。この夏の国政選挙で、この地味だが致命的でもある中高年の引き籠り問題を取り上げる覚悟のある政治家が、どれほどいるだろうか。
私は正直言って悲観的なのですけどね。問題を見てみないふりをする、善良なる良識家様が多いのが日本の特徴ですから。
1970年代のことだが、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」からの問題提起により連載を終わらせられた漫画があった。
それが表題の作品である。曰く、女性を蔑視している可能性がある、とかなんとかである。
当時、中学生だったと思うが、あたしゃ激怒したものです。こんなスケベな、いや男性の本能に忠実な作品にケチつけるとは、なんという意地悪な奴らなのだろうと怒り、哀しんだものである。
でも内心、アレはやりすぎだよなとも思っていた。アレっていうのは、体育館を埋め尽くすほどのアレである。ぶっちゃけウンコである。文章にすると、えらくグロく感じるが、漫画を読んでた時は爆笑するしかなかった。
しかし、真面目な話、私は永井豪の漫画に女性蔑視を感じたことはない。むしろ女性の性的な魅力に囚われた漫画家だと思っていた。その作品中、暴力で女性が虐待する場面が描かれることはあったが、根底から感じ取れるのは、それがヒドイことだとのメッセージは確かにあったと確信している。
それは少年向け漫画であろうと、青少年向け漫画であろうと一貫して変わることがないものであったと思う。きっと永井豪は、女性が大好きなのだと思う。
まァ、スケベ心満載の青少年の気持ちに寄り添った漫画家として、贔屓目で読んでいたのは確かだが、悪意なきスケベ心を持ち続けた人なのは確かであろう。
ちなみに冒頭の団体だが、ハウス食品のラーメンのCM「私作る人、僕食べる人」にも文句を付けたことで知られている。当人たちは、自分たちの善行に意気揚々としていたらしい。
しかし、支援の輪は思ったほど広がらず、後に「行動する女たちの会」に名称変更するも、冷戦終了後の1996年に解散に至っている。
その解散の報道を読みながら、そりゃ無理ないな、よくぞここまで続いたもんだと冷笑していたのが病気療養中であった私である。この団体から離れても、今現在も活躍している人がいるのは知っている。
でも、女性の地位向上があったとしても、それは彼女らの活動ではなく、日々の生活、仕事などで必要不可欠な人材となって活躍している女性たちの実績に起因するものだ。
口先だけで、女性の地位向上を叫ぶだけの輩に何の功績があったと言うのか。むしろ馬鹿なことを言って騒ぐだけの輩だと、見下げられていたのではないかと思う。
ただ男性、あるいは既成の指導者層(議員とか社長とか)にも、未だに女性の地位向上に否定的な人々がいるのも確かだ。馬鹿としか言いようがない。この高齢化社会と、少子化を迎えつつある社会にあって、女性を戦力として数えない愚が何故に分からない。
男だからとか、女だからではなく、人材として優秀なものを活用していかなければ、次世代を生き延びられない厳しさから何故に目をそらすのか。ソフト産業が主流となっていく21世紀においては、男女の能力格差はほとんど問題にならない。
男性主流が当然であった軍隊でさえ女性兵士の活用は必然である。
とはいえ、ここで勇ましく騒いでも意味はない。ただ苛つくだけだ。そんな時こそ、表題の漫画を読んで大笑いして欲しい。40年以上昔の漫画ではありますが、今でも十分笑える面白さがありますぞ。ちょっとエッチですけどね。
ジュニア・ヘビー級がジャンルとして確立させた最大の功労者ではないかと思うのが、獣神サンダーライガーだ。
本来、小柄な日本人にとってヘビー級は狭き門であった。背が高いだけでもダメ、体重が重いだけでもダメ。背が高く、骨太で体格が良く、なおかつ筋肉と脂肪のバランスがとれていて初めて及第点。
その上、なにかの格闘技の経験があれば良いが、最低でもスポーツ選手として世界大会レベルの実績が欲しい。なおかつ、プロレスを格闘技としてではなく、格闘演劇として理解したうえで、観客を盛り上げる演技力が必要となる。
なかでも最大の難関は身長である。ヘビー級を名乗る以上、最低でも185センチは欲しい。プロレスは観客から見られることが前提なので、見栄えとしてどうしても身長が必要となる。
対戦相手である外国の大型ヘビー級レスラーと対戦する以上、どうしても身長だけは必要だった。体重と筋肉は道場での鍛錬である程度なんとかなるが、身長だけはどうしようもない関門であった。
レスリングが身近な格闘技として定着している欧米だと、階級分けは当然であり、プロレスにもヘビー級の下の階級を設けていることは普通だった。でも、どうしても大男たちのプロレスの方が映像的な迫力がある。
だからメインはヘビー級となるが、レスリングのテクニックを競うようなジュニア・ヘビー級にも一定の支持はあった。だが、興業成績の点で、どうしてもヘビー級ほどの業績は上がらなかった。
それは日本でも同様であった。ジュニアヘビー級はヘビー級の前座、それが常識であった。
それを覆そうと奮闘したのが藤波辰巳であったが、彼は猪木の後継を目指してヘビー級に転向してしまった。本当の意味でジュニア・ヘビー級を世間に知らしめたのは、タイガーマスク(佐山明)であった。
だが、格闘技志向の強い佐山は、新日本を離れ、UWFへ移り、そこでプロレスを見切る形で格闘技の世界へ転出してしまった。ジュニア・ヘビー級のスター選手が次々といなくなる中、一人残って奮闘したのが獣神ライガーと名乗った山田恵一である。
元々、新日本プロレスの若手レスラーの一人で、その思い切りの良いファイトぶりで前座では有名な選手であった。そこに、永井豪の覆面レスラー漫画の実現といった形でマスクマンとして登場することになる。
もっとも、いくら全身タイツとマスクで隠しても、その体型からファンには山田であることがバレバレであった。山田選手は、いわゆる小顔ながら、上半身は見事にビルドアップされた逆三角形の筋肉モリモリの独特な体型で知られていたからだ。
実際、プロレスラーとしては低い身長(170㎝)ながら、その鍛えられた筋肉から繰り出すパワーはヘビー級並であり、しかも動きは俊敏であり、技も切れる。おまけに闘争心溢れるガッツマンである。
だが、今にして思うのだが、彼の最大の強みは、その人間力ではなかっただろうか。唯我独尊の変わり者が少なくないプロレスラーの中にあって、彼は常識人であり、コミュニケーション能力が高かった。
それゆえに、団体を超えてのジュニアヘビー級の交流戦が可能となった。また格闘技志向の強い旧UWF勢でも、鈴木みのるのようにプロレスに戻ってきた選手は、ライガー(山田)の実力は認めている。
ライガーは、正体が山田恵一だとバレていても、あくまで覆面レスラーでいることに拘った。プロレスのお約束ごとに忠実であった。その真摯な姿勢が、ジュニアヘビー級の盛況につながったと私はみている。
そのライガーも来年で現役引退であるそうだ。時期が時期なので、多分観に行けないけど、きっと最後までプロレスラーとして盛り上げてくれると思います。
僕はトマトだよ。
ベランダのプランターで育てられた御坊ちゃまなのさ。ようやく明るい陽射しを浴びて、実が赤色に色づいてきたんだ。
ところが、この家の人間が、残酷にも僕を枝から切り離してしまったんだ。僕はもっと大きく育ちたかったのに・・・
その挙句、「採り立てが一番美味しい」とか言って、いきなり僕に噛みついてきたんだ。痛い、痛い、痛いよぅって叫んだけれど、鈍感な人間には、僕の声は聞こえないらしい。
あっという間に僕は噛み砕かれて、その短い生涯を終えてしまったんだ。
人間って勝手だよ。
動物を食べるのは可哀そう。だから私は植物しか食べないだなんて、なんて勝手な言い草だろう。僕ら植物に生きる意志がないとでも思っているのだろうか。声を出さなくても、僕らは意思表示できるんだぞ。
僕ら植物だって、生きているんだ。
ヴィーガンだか菜食主義だか知らないけれど、そんなの人間だけの思い込みさ。でも人間なんて、この地球では新参者に過ぎないぞ。僕らは数億年前から生きてきたし、氷河期だって生き延びてきた。今よりずっと暑い時期には、この大地のほとんどを覆い尽くすほど繁栄していたんだ。
だから断言する。この残酷な人間たちが絶滅しても、僕ら植物は生き延びるってね。人間の死骸を肥料にして大きく育ってやるんだ。
僕ら植物を踏みにじり、噛み砕き、蹂躙した人間どもは、いつかは必ず僕ら植物の肥やしになるんだぞ。
まァ真面目な話、植物に話すことは出来ないでしょう。でも私は過去の経験から、植物にも生きる意志があると信じています。特にこの新緑の緑が色濃くなり、植物が繁茂する時期に、山で道なき道で、草木を薙ぎ払いならら登った日は、必ず寝苦しい夜を過ごしたものです。
本来なら疲労から熟睡できるはず。でも、藪漕ぎなどして草木を鉈で刈り払い、根元を踏み潰して、藪に道を切り開いた時は、妙に寝苦しい。まるで植物の恨みを買ったのではないかと思うほどに、寝づらい夜を過ごしたものです。
別に菜食主義は構わないのですが、植物だって生きているし、生きる意志を持っていると私は信じています。動物食を避けていても、植物の命を奪っているのです。それを誇らしげに「私はヴィーガンです」なんて語られても、私は困惑するばかり。
植物なら殺していいのかよ。
人間って生き物は雑食性。植物や動物の命を喰らって生きているのです。生き方なんて自由だし、なにを食べようと自由ですけど、ヘンな思い込みを強要されたり、誇示されたりすると、なんかウンザリしちゃいますね。
嫌な予感しか感じない。
「銀河英雄伝説」で一世を風靡した田中芳樹が長い休みを挟みながらも30年に渡り書き続けてきた「アルスラーン戦記」だが、この第15巻が最後の一作前。もう書店では最終巻である16巻が棚積みされている。
だが私は最終巻を買うかどうかを迷っている。表題の15巻を読んでみて、絶望にも似た嫌な気持ちを、どう足掻いても拭いきれないからだ。
思えば、角川から光文社に移った時点で、もう決まっていたのだろう。角川の担当編集者は、田中芳樹に何度となく疑問を呈したはずだ。だが、田中は受け入れなかっただけでなく、発刊する出版社を変更してまでして我を通した。
元々この作品はファンタジー小説である。中世ペルシャに良く似た国パルスを舞台とした英雄譚である。その本質は娯楽小説である。少なくとも第一部(7巻まで)は、その路線を裏切らない。
いや第二部も9巻あたりまでは、娯楽小説の原則に忠実であった。だが、その後からおかしくなってきた。
私の記憶では、9巻あたりまでは順調に発刊されていた。しかし、この頃から田中芳樹は、いわゆる中国ものにはまっていく。「海嘯」や「隋唐演戯」などは、見事な抄訳だと私も認めている。
ただ少し気になっていたのは、同時期に発刊されていた「創竜伝」が、このあたりから妙に反日自虐的な傾向を感じさせていたことだ。この頃の始と続兄弟の会話には、明らかに現状の日本に対する嫌悪感が読み取れる。
それをシニカルな笑いに変えたのが「薬師寺涼子・シリーズ」ではないかと思う。このエリート警視様は、歪んだ日本社会の頂点に属する人種ながら、明らかに皮相的な暴れ方をして読者の笑いを取る。
笑えるのならば、私としては許容範囲である。しかし、如何に竜王様とはいえ、あの四兄弟を根暗に貶めるのは許しがたい。そのせいか、ここしばらく続刊が出ていない。
そしてあの問題作「タイタニア」である。虐殺は田中芳樹の代名詞ではあるが、あれはあんまりだ。読者の期待を踏みにじるあの顛末に納得した読者が、どれだけいるのだろうか。
もちろんあの傑作「銀河英雄伝説」でも多くの登場人物が死んでいる。でもヤンが死しても、ユリアンがヤンの夢を引き継いだ。ヤンがあれほどに守ろうとした民主主義は、きっとアッテンボローが野党議員として守り抜くはずだ。
そして夢半ばで死んだラインハルトではあるが、その打ち立てた新帝国は、賢妻であるヒルダが必ずや引継ぎ、守り、育てていくだろうことが読者には読み取れたはずだ。その傍らには軍を降りたミッターマイヤーが国務尚書として厳しくも寛容な政治をするだろうし、軍にはミュラーらが目を光らせていくことも分る。
主人公格の二人が死んでも、読者は安心してその後を夢見ることが出来た。これこそが、娯楽小説の王道である。
だが「アルスラーン戦記」にそれを望むのは難しそうであることが、この15巻で分かってしまった。田中芳樹がどのように終わらせるのか、まだ私は知らないが、まず主人公は死ぬであろう。
問題はそこではない。その先に読者は明るい未来を見出せるのか、どうかが重要である。私には否定的な予想しか出来ない。
思うに、この作品は時間がかかり過ぎた。若き日の田中芳樹なら違うエンディングがあったように思う。しかし、年齢を重ね、頑固で依怙地な今の田中芳樹には、もはや明るい未来を描けないのではないかと思う。
最終話の16巻、読むべきか、読まざるべきか。私は今、かなり真剣に悩んでいます。