入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

         「夏」 (30)

2015年08月09日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

地元のケーブルテレビの取材を受ける北原のお師匠86歳

 15世紀、日蓮宗の日学、日朝などという高僧・名僧が、布教のため富士見から入笠山を越えて芝平の谷に下り、さらに山室川にそって山室、非持、秋葉街道に至る周辺の寺院を、次々と日蓮宗に改宗させていくという時代があった。特に日蓮宗中興の祖と言われた日朝上人がこの地に錫杖を突いた1474年とは、都は10年にわたる騒乱、応仁の乱の最中であった。そういう世相の混乱が、信濃の山深い里にまで何らかの影響を及ぼしたかは分からない。ともかく山里の住民は上人を敬慕し、その人の説く日蓮宗を信じ、身延参りをするようになった。そのとき利用された山道が、いつからともなく「法華道」と呼ばれるようになったと、北原のお師匠は語っている。



 北原のお師匠がこの法華道を復活させようと孤軍奮闘していたころ、今から約10年も前に、人に連れられて芝平の谷の弘妙寺(ぐみょうじ)へ行った。そこで大黒に師匠の話を初めて聞いて、以来不思議な縁も重なり、今に至っている。
 そのころ巷間では、師のことを憑かれていると案じた人もいたし、奇人変人の類にしようとした人もいた。しかし師をそうさせた一番の理由は、芝平の里への強烈な愛惜ではなかったかと思う。廃村となり、荒廃し、変貌していく自分の故郷への激しい憤懣と哀しみ、あるいは怒りの象徴が、法華道の復活ではなかったかと。
 
 今回の碑(いしぶみ)は、昭和36年この地を襲った「三六災害」が引き金となり、離村を余儀なくされたかつての芝平の村人の賛同と、尊い献金があって初めてできた。山回りでも、神社の寄合でも、この村の人々はたちまち団結する。閉ざされた山奥での暮らしは、それが伝統となったのだろうか。
 この法華道の石碑は、だから実際に芝平に暮らした人々の望郷の思いが凝結されている。人々から芝平の記憶が消え去る前に、何かを残したい、残さなければいけないという、そうした村人の思いがこの石碑という形に変わった。これから長いながい時を後世にまで、碑は、芝平の歴史の一端を伝えていくことだろう。

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