久しぶりに夜中の2時ごろに目が覚め、それから大分時間が経った。起きたばかりの時の室温は2度、ウイスキーのお湯割りを飲んで人心地つく。
妙な夢を見た。山は入笠のはずなのだが後で思い返すと、人で賑わう登山口の辺りは八ヶ岳のようで、その様子も実際とは違って、幾度か夢の中に出現した架空の山だった。
八ヶ岳は阿弥陀の南陵を始めとして、主にその西側の谷には四季を通じて結構行ったが、登山者の多くが目指す主峰赤岳は数えられるほどの記憶しかない。それでいて、どうも主峰の稜線上にいつも似たような風景と、似たような山小屋が現れる。
季節もはっきりしなくて、無雪期だと思っていたらいつの間にかアイゼンを履いていて、しかもそれが登行中に外れてしまうのである。アイゼンは何台か世話になったが、その中に幾つかに分解できるアメリカ製があった。このアイゼンは調整が難しくて人に上げてしまい、最も馴染の少なかった1台だったと言える。
それにもかかわらず夢の中で、それが外れた時の足の感覚は、行動中にアイゼンを外すなどという経験はなかったのに、まるで実際にあったような感触が今も足に残っているから不思議だ。
どうして、実際の経験よりか夢の中の出来事の方が優先席を占めてしまうのだろう。過去の経験を修正したいという願望があってのことなら分かるが、これらの夢に出てくることはそのような話ではない。経験したことも、見たこともないことが、現実のことを差し置いて夢の中では勝ってしまうようなのだ。
アイゼンを登山靴に装着する際、外れないようにという注意ぐらいは誰でもする。その遠い記憶が、フラスコの底に溜まっていた小さなゴミが加温されて浮上してくるように、夢に現れたというのならまだ分かる。
しかし、膨大な記憶の粉塵に等しいような物を集め、人で混雑した小屋の中を通り、危うい階段を上り、薄暗い二階からようやく外に出る、という夢を見させてくれた脳、自分のものであって自分のものではない、まさしく自分の裡に棲む別人格のような気がする。それがこのごろやたら元気がいい。
経ヶ岳はきょうも吹雪いている。あの積雪から判断すると、年末は車で行けるだろう。
本日はこの辺で、明日は沈黙します。