山下大将は、相手の航空兵力が何の損害を受けていないのに、決戦場をレイテ島に移すのは危険であり、ただ兵力を増派して勝利が得られると考えるのは甘い。また、それによる兵力の分散は、その後の戦力の衰退に陥ると考えた。
そこで、命令を確認するため、武藤章参謀長(陸士二五・陸大三二恩賜)の提案で、参謀副長・西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)が、樺沢副官と共に南方総軍司令部に向かった。
総軍司令部では、西村少将が寺内軍司令官に面会した。樺沢副官が、部屋の外で待っていると、寺内閣下の気に障ったとみえ、次第に声が高くなって、「とにかく、やれといったら、やれ」と言う、寺内閣下の声が聞こえてきた。結局、寺内元帥は山下大将の主張を突っぱねた。
仕方なく山下大将はレイテ決戦に挑んだが、十月二十四日、二十五日のレイテ沖海戦でも海軍の連合艦隊は大損害を受けた。レイテ島では陸軍の第三十五軍も多大な損害を出した。
山下大将は十一月九日、武藤章参謀長を南方総軍に派遣して、レイテ作戦の中止を進言させた。
ところが、南方総軍はなお決戦続行の支持で応え、十一月十七日、サイゴンに司令部を移転した。だが、十二月十五日、ルソン島南部に隣接するミンドロ島サンホセに米軍が上陸してきた。
この時点で、山下大将は、第三十五軍司令官・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一恩賜)に対し、レイテ作戦中止と、第三十五軍のレイテ島撤退を許可する命令を出した。
昭和十九年十一月下旬、第十四方面軍司令部の移転先として、武藤参謀長がルソン島西部の避暑地、バギオを選定し、同地区の守備隊に内示して準備を命じた。
昭和十九年十二月三十一日、イポの戦闘司令所に山下大将と幕僚は陣取っていた。「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三・文春文庫)によると、戦闘司令所の一隅の机をはさんで、年取った大尉が同僚数人と大声で話し合っていた。
山下大将の司令部で情報主任参謀の職務をしていた堀栄三少佐(陸士四六・陸大五六)の耳にも、彼らの話が聞こえてきた。それは退職してからの恩給やら、退職金の額のことで、算盤をはじいて話しに花を咲かせていた。
その声が少々大きいのと、戦場にふさわしい話とは受け取れなかったので、堀少佐は堪らなくなって、「おい、ここは戦場だぞ!」と怒鳴った。
話は止んだ。山下大将は司令部の片隅の机から見ていたようだった。山下大将はしばらくして堀少佐を呼んだ。そして次の様に言った。
「堀よ、お前はまだ若いから、ああいう話は承知ならんようだが、あの人たちには大事なことなのだ。怒ってはいけない。いまにお前にも判る時期が来る。それにあの人たちの中には赤紙一枚でもう何年も召集されている者もいるのだ。赤紙一枚で戦略の失敗の犠牲になっていった人が何百万といる」。
山下大将は周囲に聞こえないように、静かにやわらかく、大将の机の端に手をついて耳を寄せるように聞いていた堀少佐の手の上に、山下大将は大きな手を重ねて、「わかったな」という目をした。
昭和二十年元旦、山下大将は戦闘司令所の部下と共に、ダムの水煙をこえて、はるかに皇居にむかって遥拝した。部下たちが頭を上げても、山下大将はまだ頭を下げていた。
一月二日、山下大将の第十四方面軍司令部は、桜兵営に戻り、一泊の後、バギオに向った。大本営も南方総軍も去った。もう誰も助けてくれない。
「方面軍、大本営に殉ず」。武藤章参謀長はこう述べた。武藤参謀長は山下大将とともに当初のルソン決戦を主張し、レイテ決戦には始終反対だった。誤った戦略への批判を、そう表現したのである。
武藤参謀長は無謀極まる捷一号作戦とレイテ決戦を計画指導した連中を名指して、「一体何人殺せば作戦課は気が済むのか」とも非難して激怒していた。第二十六師団がレイテ上陸に失敗して多数の海没者を出したことである。
一月九日、米軍は二千百隻の上陸用舟艇をつらねてリンガエン湾に来攻した。二十万三千人の大部隊だった。
山下大将はリンガエン地区を守備している師団長・西山福太郎中将(陸士二四・陸大三七)が指揮する第二十三師団と旅団長・佐藤文蔵少将(陸士二四)が指揮する独立第五十八旅団に攻撃を命じた。
だが、砲爆撃の傘の下を進む米軍に対して反撃は困難だった。師団長・岩仲義治中将(陸士二六・陸大三七)の指揮する戦車第二師団隷下の第三旅団長・重見伊三雄少将(陸士二七)が連隊長・前田孝夫中佐の指揮する戦車第七連隊の一部を派遣して、一月十六日と十七日に攻撃を行った。
だが、その結果は、日本軍が戦車九輛、人員二百五十人を失ったのに比べ、アメリカ軍の損害は、死傷八十五人、トラック三台にとどまった。
その後も山下大将は、さらなる反撃を命令した。だが重戦車と火砲を揃えている米軍の攻撃に、防御がやっとだった。保有戦車の大部分を地中に半没して砲台化した戦車旅団も、ゲリラの通報により正確な空爆を受けた。
その結果、半没していた旅団のほとんどの戦車は吹き飛ばされた。旅団長・重美少将も、米軍のシャーマン戦車の七五ミリ砲を受けて車体もろとも四散した。
そこで、命令を確認するため、武藤章参謀長(陸士二五・陸大三二恩賜)の提案で、参謀副長・西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)が、樺沢副官と共に南方総軍司令部に向かった。
総軍司令部では、西村少将が寺内軍司令官に面会した。樺沢副官が、部屋の外で待っていると、寺内閣下の気に障ったとみえ、次第に声が高くなって、「とにかく、やれといったら、やれ」と言う、寺内閣下の声が聞こえてきた。結局、寺内元帥は山下大将の主張を突っぱねた。
仕方なく山下大将はレイテ決戦に挑んだが、十月二十四日、二十五日のレイテ沖海戦でも海軍の連合艦隊は大損害を受けた。レイテ島では陸軍の第三十五軍も多大な損害を出した。
山下大将は十一月九日、武藤章参謀長を南方総軍に派遣して、レイテ作戦の中止を進言させた。
ところが、南方総軍はなお決戦続行の支持で応え、十一月十七日、サイゴンに司令部を移転した。だが、十二月十五日、ルソン島南部に隣接するミンドロ島サンホセに米軍が上陸してきた。
この時点で、山下大将は、第三十五軍司令官・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一恩賜)に対し、レイテ作戦中止と、第三十五軍のレイテ島撤退を許可する命令を出した。
昭和十九年十一月下旬、第十四方面軍司令部の移転先として、武藤参謀長がルソン島西部の避暑地、バギオを選定し、同地区の守備隊に内示して準備を命じた。
昭和十九年十二月三十一日、イポの戦闘司令所に山下大将と幕僚は陣取っていた。「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三・文春文庫)によると、戦闘司令所の一隅の机をはさんで、年取った大尉が同僚数人と大声で話し合っていた。
山下大将の司令部で情報主任参謀の職務をしていた堀栄三少佐(陸士四六・陸大五六)の耳にも、彼らの話が聞こえてきた。それは退職してからの恩給やら、退職金の額のことで、算盤をはじいて話しに花を咲かせていた。
その声が少々大きいのと、戦場にふさわしい話とは受け取れなかったので、堀少佐は堪らなくなって、「おい、ここは戦場だぞ!」と怒鳴った。
話は止んだ。山下大将は司令部の片隅の机から見ていたようだった。山下大将はしばらくして堀少佐を呼んだ。そして次の様に言った。
「堀よ、お前はまだ若いから、ああいう話は承知ならんようだが、あの人たちには大事なことなのだ。怒ってはいけない。いまにお前にも判る時期が来る。それにあの人たちの中には赤紙一枚でもう何年も召集されている者もいるのだ。赤紙一枚で戦略の失敗の犠牲になっていった人が何百万といる」。
山下大将は周囲に聞こえないように、静かにやわらかく、大将の机の端に手をついて耳を寄せるように聞いていた堀少佐の手の上に、山下大将は大きな手を重ねて、「わかったな」という目をした。
昭和二十年元旦、山下大将は戦闘司令所の部下と共に、ダムの水煙をこえて、はるかに皇居にむかって遥拝した。部下たちが頭を上げても、山下大将はまだ頭を下げていた。
一月二日、山下大将の第十四方面軍司令部は、桜兵営に戻り、一泊の後、バギオに向った。大本営も南方総軍も去った。もう誰も助けてくれない。
「方面軍、大本営に殉ず」。武藤章参謀長はこう述べた。武藤参謀長は山下大将とともに当初のルソン決戦を主張し、レイテ決戦には始終反対だった。誤った戦略への批判を、そう表現したのである。
武藤参謀長は無謀極まる捷一号作戦とレイテ決戦を計画指導した連中を名指して、「一体何人殺せば作戦課は気が済むのか」とも非難して激怒していた。第二十六師団がレイテ上陸に失敗して多数の海没者を出したことである。
一月九日、米軍は二千百隻の上陸用舟艇をつらねてリンガエン湾に来攻した。二十万三千人の大部隊だった。
山下大将はリンガエン地区を守備している師団長・西山福太郎中将(陸士二四・陸大三七)が指揮する第二十三師団と旅団長・佐藤文蔵少将(陸士二四)が指揮する独立第五十八旅団に攻撃を命じた。
だが、砲爆撃の傘の下を進む米軍に対して反撃は困難だった。師団長・岩仲義治中将(陸士二六・陸大三七)の指揮する戦車第二師団隷下の第三旅団長・重見伊三雄少将(陸士二七)が連隊長・前田孝夫中佐の指揮する戦車第七連隊の一部を派遣して、一月十六日と十七日に攻撃を行った。
だが、その結果は、日本軍が戦車九輛、人員二百五十人を失ったのに比べ、アメリカ軍の損害は、死傷八十五人、トラック三台にとどまった。
その後も山下大将は、さらなる反撃を命令した。だが重戦車と火砲を揃えている米軍の攻撃に、防御がやっとだった。保有戦車の大部分を地中に半没して砲台化した戦車旅団も、ゲリラの通報により正確な空爆を受けた。
その結果、半没していた旅団のほとんどの戦車は吹き飛ばされた。旅団長・重美少将も、米軍のシャーマン戦車の七五ミリ砲を受けて車体もろとも四散した。