陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

240.山下奉文陸軍大将(20)「将軍はなぜハラキリをしないのか」

2010年10月29日 | 山下奉文陸軍大将
 昭和二十年八月十五日、終戦を迎え、九月二日、山下大将は山を降りて、キャンガンに向った。降伏調印式は、九月三日、バギオの高等弁務官別荘で行われた。

 九月三日午前九時三十分、山下大将は武藤参謀長、海軍側の南西方面艦隊司令官・大川内傳七中将(海兵三七・海大二〇)と参謀長・有馬馨少将(海兵四二・海大二五)とともに席に着いた。

 だが、入ってきた連合国軍側の一人を見て眼をみはった。シンガポール攻略戦で、降伏したパーシバル中将がいた。

 パーシバル中将は捕虜として日本にいるはずである。戦争終結により釈放されたのであろうが、フィリピン戦線の降伏調印式に出席するのは場違いである。山下大将は驚き、隣に座る武藤参謀長も肩をそびやかせた。

 パーシバル中将はジョナサン・ウェインライト中将(バターン半島コレヒドール要塞の米軍指揮官)とともに、マッカーサー元帥により、東京湾での降伏調印式に招かれ参列した。そのあと、やはりマッカーサー元帥の計らいでバギオの降伏調印式に招かれたのだ。

 そのときの感想を後にパーシバル中将は次のように書き残している。

 「山下が部屋に入ってきた時、私は、彼の一方の眉が上がり、そして驚きの表情がその顔をかすめたのを見た。しかし、それはほんの一瞬だった」

 「彼の顔はすぐ、全ての日本人に特有な、あのスフィンクスのような、謎の表情に再び戻った。そして彼はそれ以上、何らの関心も示さなかった」

 山下大将は降伏調印後マニラ南方三十マイル、リサール県モンテルパ町にあるニュー・ビリビッド刑務所に捕虜として収容された。

 そこには、すでに十人以上の将官が分住していた。二、三人ずつの同居形式だが、山下大将は個室をあてがわれた。待遇はよかった。廊下伝いに並ぶ他の将官室との往来も自由だった。

 だが、様子がおかしい。パーシバル中将の存在は山下大将に衝撃を与えた。パーシバル中将はマッカーサー元帥の特命で、終戦直後に捕虜収容所からフィリピンに送られたのだった。

 だが、フィリピン戦の降伏調印式出席には、パーシバル中将は何の関係もない。理由があるとすればただひとつ・・・・・・かつての敗将の前に頭を下げさせる、という露骨な報復意識意外には無い。

 屈辱の念が山下大将を襲った。それがいかに激しく、耐え難く感じられたか。「私はあのとき、自決をしようとさえ思った」と、山下大将は後に処刑の直前、森田教戒師に述懐している。

 ある日、アメリカの記者が山下大将に質問した。「将軍はなぜハラキリをしないのか」。後にアメリカ人弁護人の一人も東條英機大将の自決未遂に関連して、同様な疑問を表明した。

 山下大将は「陛下は自決せよとはご命令になっていない」と答え、東條大将については、「責任を回避しようとしたのであり、不忠と思う」と、語気鋭く、キッパリと述べた。

 昭和二十年九月二十五日、山下大将は戦犯として裁判にかけられる旨の通告を受けた。起訴状には次のように述べられていた。

 「日本帝国陸軍大将山下奉文は、一九四四年十月九日より一九四五年九月二日の間、マニラおよびフィリピン群島の他の場所において、米国およびその同盟国と戦う日本軍司令官として、米国民およびその同盟国民と属領市民とくにフィリピン市民にたいする部下の野蛮な残虐行為とその他の重大犯罪を許し、指揮官として部下の行動を統制する義務を不法に無視し、且つ実行を怠った。ゆえに彼、山下奉文は戦争法規に違反した」

 十月八日、マニラ市の高等弁務官邸ホールで、軍事裁判の第一回公判が開かれた。その後公判は進み、十二月八日午後二時、山下大将に「絞首刑」の判決言い渡しが行われた。わずか十五分だった。

 「絞首刑」の判決が言い渡されたとき、山下大将ははっきり聞き取れなかった様子で、左横の浜本通訳に首を傾けて、「なに」と聞いた。

 浜本通訳が小声で「首をくくるんですよ」と言うと、山下大将は「お、そうか」とうなずき、武藤参謀長、宇都宮参謀副長とともに法廷を去った。

 昭和二十一年二月二十二日午後十一時、山下大将は収容所テントから自動車でマニラ郊外ロス・パニョスの処刑場に送られた。処刑の宣告を受けたのは、ほかに太田清一憲兵大佐、東地通訳の二人だった。

 二月二十三日午前三時二分、山下大将の絞首刑は実行された。絶命は午前三時二十七分と記録されている。享年六十歳だった。山下久子夫人が山下大将の正式死亡通知を受け取ったのは、さらにその三ヵ月後だった。

 いわば、山下大将の歩みには、つねに得意と失意が絡み合い、得意においても失意においても、山下大将の胸中には不本意の想いがよどみ、忍苦の歯がみが消えなかった。

 だが、持ち前の細心さと豪気に支えられ、時に応じての諦観がなかったら、その経歴はもっと早く断絶していたかもしれない。

(「山下奉文陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山口多聞海軍中将」が始まります)