陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

239.山下奉文陸軍大将(19) 少将と知って、バカヤロウと叫ぶのは誰か

2010年10月22日 | 山下奉文陸軍大将
 山下大将が配備したクラークフィールド飛行場を守る塚田理喜智中将(陸士二八・陸大三六)が指揮する建武集団も、一月末には崩壊した。二月に入ると積極的攻撃はできなくて、もっぱら防戦に苦慮する状況になった。

 バギオもすでに三度の大空襲を受け、山下大将は山腹の防空壕に移った。山下大将はこの頃、本来の持久構想に戻り、作戦の指導は武藤参謀長にゆだねていた。

 山下大将は率先して対空警戒に注意を払った。防空壕の偽装でも、入口のまわりに松葉をちりばめている曹長達に、「おい、その枝はこっち・・・・・・いかん、いかん。その枝の置き方は不自然だ」などと、細かい指示をした。

 西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一恩賜)の内地転任のあとをうけ、駐フィリピン大使館武官兼参謀副長に任命された宇都宮直賢少将(陸士三二・陸大四二)は「大将の仕事じゃない。せいぜい大尉参謀の仕事ですよ。閣下はもっと野放図な方と想像していただけに、細心ぶりは意外でした」と後に述べている。

 ある日、午前五時頃、宇都宮少将が宿舎から司令部に向おうとしたときである。敵機は早くても午前八時頃、朝食後に飛来するのが慣例だったので、宇都宮少将はまだうす暗い焼け跡を安心して歩いていた。

 ものの二百メートルも来たかと思うと、前方に怒声がとどろいた。「そこへ行くのは誰だ、バカヤロウッ」。夜明け前とはいえ、人影の見分けはつくし、軍人なら宇都宮少将を知らぬはずはない。では、少将と知って、バカヤロウと叫ぶのは誰か。

 山下大将だった。豪の入口に立って、「豪の近くをうろうろしては敵機に発見される。キミみたいな立場の者が模範を示さにゃいかんじゃないか」と言った。

 宇都宮少将は「こんなに朝早くは来ませんよ」と言おうと思ったが、山下大将がすごい剣幕だったので、「どうも失礼しました」と言って副官と一緒に道端の垣根の横を腰をかがめて通った。

 戦後に、宇都宮少将は東京に設立された米軍日本地区語学校の教官になったが、学生の一人、ウオーカー少佐が、「戦時中バギオの山下司令部の爆撃を命じられて、毎日上空を飛んだが、遂に発見できなかった」と述懐した。

 宇都宮少将は「なるほど、あれを大尉参謀ぐらいがやっていたら、やはり大尉だけにどこかに手抜かりがあったかもしれない。山下大将が、おやりになってこそだ」と述べた。

 昭和二十年四月十六日、山下大将は、バギオを撤退して、バンバンの戦闘司令所に司令部を移すことに決め、自動車でバギオを離れた。

 バンバンは標高四百メートルの高地で、ジャングルを分け入ったマンゴー林のニッパ・ハウスが点々と並んでいるのが、バンバン戦闘司令所だった。

 上陸したアメリカ軍は、ルソン島のジャングル地帯に対しての攻撃は困難を極めた。進攻進度も停滞していた。

 攻撃してきたアメリカ第三十二師団長のW・ギル少将は「水不足、暑さ、ほこりという三重苦のうえに、洞穴から洞穴、タコ壺からタコ壺に飛び移って攻撃するという日本軍という最大の苦難に直面し、わが軍の前進は文字通りインチ単位のものでしかなかった」と回想している。

 一方、日本軍のバンバン戦闘司令所の責任者は小沼治夫少将(陸士三二・陸大四三)だった。小沼少将は、カガヤン河谷に集まる部隊を新編成しては前線に送り、敵の攻撃に対処した。

 おかげで、直接には、山下大将も武藤参謀長も、なにもすることがなかった。報告を聞くだけだが、その報告は、降雨による相次ぐ橋の流失か、でなければ、次々の陣地の失陥だった。

 五月八日、山下大将は全軍に「一致団結して、凱歌を奉せん」という趣旨の訓示を布告した。だが、各部隊は分散しており、連絡もとぎれがちになっていた。

 山下大将は、雨のふきこみを防ぐためにニッパ屋根の端を長くたらした薄暗い室内に黙居し、ぐらつくテーブルにとまるハエをハエたたきでたたいては、無聊をまぎらした。

 山下大将は、ハエたたきは常に離さず、報告に訪れる参謀に止まっていれば、顔、手をかまわず、無言でピシリとたたいた。

 「老将の蝿叩きをり卓ひとつ」と武藤参謀長が一句を献ずると、山下大将は「発句か」と無愛想に論評した。

 「とんでもない、俳句ですよ」と、大将のハエたたきと同様、芭蕉句集を座右から離さない武藤参謀長は憤然と言い、俳学の薀蓄を傾けて発句にあらざる所以を解説した。

 だが山下大将は「だが、ここには老将はおらんよ」とぷすりと言った。武藤参謀長は「私はあきれた。まだ老将ではないらしい」と記しているが、当時、山下大将は五十九歳。武藤参謀長は五十二歳だった。

 山下大将は読書もほとんどせず、まれに読めば講談本くらいだったという。ただ軍務一点張りで、他に趣味も無ければ道楽もない山下大将は、フィリピンの山中にあって、とくにバギオが陥落してからは敗報を聞くだけで何もすることがなかった。そんなとき、空襲の合間に小川の流や、野花の美しさをぼんやり眺めて、少年時代を懐かしんだという。

 苦戦していたアメリカ軍は、それでもルソン島の日本軍の重要拠点はほとんど占領した。米軍第三十七師団がバレテ峠からまっしぐらにバンバンに迫ってきた。山下大将は司令部移転を決定し、先行してキャンガンに向った。

 昭和二十年六月五日、宇都宮参謀副長ら第十四方面軍司令部要員は、山下大将の後を追って、バンバンを脱出して、キャンガンに向った。

 軍司令部要員がキャンガンに到着したのは一ヵ月後の七月五日だった。だが、キャンガンもアメリカ軍の攻撃が迫り、山下大将は次の軍司令部用地に向けて出発していた。

 山下大将が、ハバンガンからアシン河の渓谷を上下し、標高千五百メートルの断崖中腹に設けられた新司令部に到着したのは七月十二日だった。

 アメリカ軍のマッカーサー元帥はすでに、六月二十八日、ルソン島主作戦終了の声明を発表していた。