陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

306.本間雅晴陸軍中将(6)四階の窓から飛び降りそうになった自殺未遂事件を起こした

2012年02月03日 | 本間雅晴陸軍中将
 九月末、本間大尉は従軍武官として英軍に配属されるため、西部戦線に向かった。本来なら今村大尉が従軍するはずだった。

 本間大尉は大使館付武官の補佐官になる予定だったが、朝から晩まで暗号を組み立てて電報を打ったり、暗号解読、旅行中の日本人の世話などの補佐官の仕事を見て、すっかり嫌気がさしていた。

 それで本間大尉は、世界大戦も終わろうとしている時、一度戦場を視察したいと思ったので、同郷、新潟出身の先輩、参謀本部作戦課長・大竹沢治大佐(陸士七・陸大一六恩賜・少将・参謀本部第一部長)に英軍に従軍することを頼んだ。

 本間大尉は、自分が従軍することになれば、補佐官の代わりが東京から派遣されると思い込んでいた。だが、結果は、本間大尉と今村大尉が入れ替って、今村大尉が補佐官を命ぜられた。

 東京で今村大尉は軍務局長・奈良武次中将(陸士一一・砲工学校高等科優等・陸大一三・侍従武官長・大将・男爵・勲一等旭日桐花大綬章)から「君は渡英後、従軍武官に指名されるはずだ。その時の研究項目は別に指令する」と言われていたので、補佐官に決まったと聞かされたときは、甚だ不満だった。

 そこで、今村大尉は、参謀本部の電報は間違いだろうと、訂正電報を待っていた。その今村大尉を本間大尉が食事に誘った。本間大尉は首をうなだれて、「君にあやまらねばならぬことがある」と、大竹大佐に依頼した事情を説明した。

 今村大尉は、「もし本間大尉が黙っていたら、あとになってその理由が分かったら、自分は彼を卑劣な奴と軽蔑しただろう」と述べて、素直に打ち明けた本間大尉を快く許した。

 三年後の大正十年春、ロンドンの本間大尉は、東京にいる陸軍士官学校同期の藤井貫一大尉(陸士一九・陸大三二・少将・対馬要塞司令官)から手紙を受け取った。

二人は新発田連隊で一緒に勤務、暮らした仲だった。藤井大尉からの手紙は、本間大尉の胸を刺した。それは次のような内容だった。

 「智子夫人の評判が非常に悪い。二人の子供は女中まかせで、着飾っては若い男と出歩いている。女優となって舞台に立っているらしく、家にもあやし気な男たちが出入りして、近所の話題になっている。軍人の名誉を傷つけることでもあり、君から厳重に注意されることを望む」。

 藤井大尉はこの手紙を書く前に、同期生の牧野正三郎大尉(陸士一九・陸大三一・少将・陸軍司政長官)とともに本間大尉の留守宅を訪れ、直接智子に忠告した。

 だが、とても二人の意見を聞く相手ではなかった。「何もやましいことはない。芸術家と交際してどこが悪いか。失礼なことを言うな」と逆にまくしたてられて、ほうほうの態で引き上げた。

 さらに、同期の舞伝男大尉から藤井は「本間の留守宅には行くな。悪い噂のある細君だから、うっかりすると、こちらまで人から変な目で見られるぞ」と忠告された。

 ロンドンの本間大尉から返信が藤井大尉へ来た。「家庭内のことに干渉してくれるな」という文面で、友情に感謝しているものの、「余計なおせっかい」と言わぬばかりだった。

 智子は自分の行動が夫にどのような影響をおよぼすか考えるような女ではなかった。二人の子供は佐渡のマツのところに引き取られた。

 そのあと智子は一人でアトリエのついた借家に引っ越した。こうして、ロンドンの本間大尉がそこへ帰る日を待ち焦がれた彼らの家庭は消滅した。

 本間と智子の次男、雅彦は、彼の手記「偉大なる腰抜け将軍―本間雅晴」の中に、「留守中、智子は若い画家と駆け落ちした」と書いている。

 ロンドンの本間大尉は妻の素行について藤井や母マツから知らされたとき、理性を失うほどの絶望状態に陥った。日本料理屋「日の出屋」の四階の窓から飛び降りそうになった自殺未遂事件を起こした。

 すぐにでも軍人をやめ、故郷に帰って子供を育てるという本間大尉を、今村均大尉はなだめすかして、予定通り柳川平助中佐と三人で二ヶ月間の欧州旅行を済ませ、マルセイユから郵船・北野丸で日本に向かった。

 三年ぶりで再開した夫婦は麹町の旅館で話し合った。元通りの生活に戻ってくれと哀訴懇願する本間大尉をかたくなに拒んで、智子は旅館を出た。