今村大尉が「さようであります」と答えると、
上原元帥は「わしはフランスと違った編制にしている英軍は、いかなる理由で、そのようにしたかを聞いているのだ」と言った。
今村大尉が「両軍の主義を確かめてはおりません」としぶしぶ答えると、
上原元帥は「日本軍の将来の歩兵隊編制をどうすべきかに考え及んだなら、すぐにこの点を聞き出しておくべきだった。それを確かめなかったのは手落ちだ。さて、疑問の第二点は……」と、二時間も絞られ、今村大尉はほうほうの態で逃げ出した。
次の日曜日には、本間大尉が上原別荘に呼びつけられた。その翌日、本間大尉は参謀本部の今村大尉を訪ねた。
今村大尉が「どうだった。無事に済んだか」と問いかけると、
本間大尉は「無事でなんかあるものか。ひどい目にあわされた。俺の報告書の“戦車隊運用”についての質問だったが……」と詳しく話し出した。
その報告書は英軍雑誌記事の要点を訳したものだった。
本間大尉は「榴弾が近くで炸裂したとき、戦車内の兵員は振動でどんな衝撃を受けるか?なんて聞かれたって、戦車に乗ったこともない俺にわかるはずがない」と今村大尉に語った。
だが、その前日、上原元帥は「英軍は君を戦車隊にはつけなかったかも知れんが、英軍将校にただすなりして、戦車に対する敵砲兵の威力を確かめることはできたはずだ」と本間大尉を叱責している。
また上原元帥は「三年間の駐在で、英国の最もよい点と感じたところ、最も悪い点と感じたところは、何だった?」と本間大尉に質問した。
本間大尉は「よい点は紳士道といいましょうか、実に礼儀正しいことです。悪いところと申せば、保守主義で、他国のことを学ぼうとしないことです」と答えた。
すると上原元帥は「君は三年もおって、まるで逆に見ている。英国の紳士道という礼儀は国内だけの話、国際間のことになると完全に非紳士的だ」
「目の前の香港をどうして手に入れたか。インドをどう統治しているか。敗将ナポレオンをどう取り扱ったか。アフリカ土人をいかに奴隷として売りさばいたか。君はそれでも英国民は紳士的だというのか」
「また、英国の悪いところは保守だという。英国は外に対しては、あのようにおおっぴらに無作法な利己主義を振舞いながら、国内では全英人の団結保持のため、おおいに国粋と民族の優越性とを説いてやまない」
「この保守こそ、大英帝国を堅持している唯一の強味といえる。しかも保守の内容を検討して見給え。英国のような進歩的な民族が、どこにいる。蒸気機関の発明、鉄道の建設、社会施設の改良、議会制度など、みな他国より一歩も二歩も先に進んでいる」
「現に将来列国軍がそうなるであろう軍の機械化などでさえ、英国は先鞭をつけているではないか。君はもう一ぺん、英国の歴史や英民族の性格を研修しなおさなけりゃいかん」。
本間大尉は完璧までにやっつけられて、「雷おやじめ」と思いながら退散した。だが、今村大尉も本間大尉も上原元帥は結局、「偉いおやじだ」という結論を出した。
一方上原元帥は、本間大尉を陸軍大学校の教官に任じ、戦車戦術の教育に当たらせた。また、今村大尉は、この三年後、参謀総長の職を辞したあと軍事参議官となった上原元帥の副官に任命されている。
昭和六年、満州事変が勃発、翌七年に、本間雅晴大佐は陸軍省新聞班長になった。「丸エキストラ戦史と旅28将軍と提督」(潮書房)所収「非情の将軍・本間雅晴」(岡田益吉)によると、本間大佐は名新聞班長で、うるさい新聞記者連中も慈父のごとく本間大佐を慕っていた。
当時、反軍的傾向も残っており、軍の強行的な満州政策に対しても、本間新聞班長は言論界に対するオブラートの役目を果たしていた。
陸軍大臣は荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・文部大臣)、陸軍次官は柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜・第一〇軍司令官・司法大臣・国務大臣)、軍務局長は山岡重厚少将(陸士一五・陸大二四・中将・第一〇九師団長・勲一等旭日大綬章・善通寺師管区司令官・高知県恩給権擁護連盟委員長)という、わからず屋が控えている中で、本間大佐はいつもニコニコして、軍部の真意を諒解させるよう努力していた。
ところが、不思議なことが起こった。昭和八年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退して、外交上孤立してしまった。
このとき、英国に長くいて、親英派とか、その人柄から国際協調派と思われていた、本間新聞班長が、強硬に国際連盟脱退を支持したのである。
上原元帥は「わしはフランスと違った編制にしている英軍は、いかなる理由で、そのようにしたかを聞いているのだ」と言った。
今村大尉が「両軍の主義を確かめてはおりません」としぶしぶ答えると、
上原元帥は「日本軍の将来の歩兵隊編制をどうすべきかに考え及んだなら、すぐにこの点を聞き出しておくべきだった。それを確かめなかったのは手落ちだ。さて、疑問の第二点は……」と、二時間も絞られ、今村大尉はほうほうの態で逃げ出した。
次の日曜日には、本間大尉が上原別荘に呼びつけられた。その翌日、本間大尉は参謀本部の今村大尉を訪ねた。
今村大尉が「どうだった。無事に済んだか」と問いかけると、
本間大尉は「無事でなんかあるものか。ひどい目にあわされた。俺の報告書の“戦車隊運用”についての質問だったが……」と詳しく話し出した。
その報告書は英軍雑誌記事の要点を訳したものだった。
本間大尉は「榴弾が近くで炸裂したとき、戦車内の兵員は振動でどんな衝撃を受けるか?なんて聞かれたって、戦車に乗ったこともない俺にわかるはずがない」と今村大尉に語った。
だが、その前日、上原元帥は「英軍は君を戦車隊にはつけなかったかも知れんが、英軍将校にただすなりして、戦車に対する敵砲兵の威力を確かめることはできたはずだ」と本間大尉を叱責している。
また上原元帥は「三年間の駐在で、英国の最もよい点と感じたところ、最も悪い点と感じたところは、何だった?」と本間大尉に質問した。
本間大尉は「よい点は紳士道といいましょうか、実に礼儀正しいことです。悪いところと申せば、保守主義で、他国のことを学ぼうとしないことです」と答えた。
すると上原元帥は「君は三年もおって、まるで逆に見ている。英国の紳士道という礼儀は国内だけの話、国際間のことになると完全に非紳士的だ」
「目の前の香港をどうして手に入れたか。インドをどう統治しているか。敗将ナポレオンをどう取り扱ったか。アフリカ土人をいかに奴隷として売りさばいたか。君はそれでも英国民は紳士的だというのか」
「また、英国の悪いところは保守だという。英国は外に対しては、あのようにおおっぴらに無作法な利己主義を振舞いながら、国内では全英人の団結保持のため、おおいに国粋と民族の優越性とを説いてやまない」
「この保守こそ、大英帝国を堅持している唯一の強味といえる。しかも保守の内容を検討して見給え。英国のような進歩的な民族が、どこにいる。蒸気機関の発明、鉄道の建設、社会施設の改良、議会制度など、みな他国より一歩も二歩も先に進んでいる」
「現に将来列国軍がそうなるであろう軍の機械化などでさえ、英国は先鞭をつけているではないか。君はもう一ぺん、英国の歴史や英民族の性格を研修しなおさなけりゃいかん」。
本間大尉は完璧までにやっつけられて、「雷おやじめ」と思いながら退散した。だが、今村大尉も本間大尉も上原元帥は結局、「偉いおやじだ」という結論を出した。
一方上原元帥は、本間大尉を陸軍大学校の教官に任じ、戦車戦術の教育に当たらせた。また、今村大尉は、この三年後、参謀総長の職を辞したあと軍事参議官となった上原元帥の副官に任命されている。
昭和六年、満州事変が勃発、翌七年に、本間雅晴大佐は陸軍省新聞班長になった。「丸エキストラ戦史と旅28将軍と提督」(潮書房)所収「非情の将軍・本間雅晴」(岡田益吉)によると、本間大佐は名新聞班長で、うるさい新聞記者連中も慈父のごとく本間大佐を慕っていた。
当時、反軍的傾向も残っており、軍の強行的な満州政策に対しても、本間新聞班長は言論界に対するオブラートの役目を果たしていた。
陸軍大臣は荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・文部大臣)、陸軍次官は柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜・第一〇軍司令官・司法大臣・国務大臣)、軍務局長は山岡重厚少将(陸士一五・陸大二四・中将・第一〇九師団長・勲一等旭日大綬章・善通寺師管区司令官・高知県恩給権擁護連盟委員長)という、わからず屋が控えている中で、本間大佐はいつもニコニコして、軍部の真意を諒解させるよう努力していた。
ところが、不思議なことが起こった。昭和八年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退して、外交上孤立してしまった。
このとき、英国に長くいて、親英派とか、その人柄から国際協調派と思われていた、本間新聞班長が、強硬に国際連盟脱退を支持したのである。