陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

307.本間雅晴陸軍中将(7)「君は、なんと言う馬鹿か……」と言って、唖然とした

2012年02月10日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間大尉は仲人の鈴木荘六中将に智子との復縁を頼みに行ったが、噂を聞いていた鈴木中将は本間大尉を痛烈に非難して断った。

 本間大尉は、親友今村大尉にも智子との仲介を頼んだが、今村大尉も断った。本間大尉はあきらめきれずにいた。

 本間大尉は子供たちの顔を見せたら智子の気持ちもやわらぐかと、佐渡から呼び寄せた、道夫、雅彦兄弟に、ロンドンみやげの服を着せ、公園で智子に会わせた。

 だが、これも本間大尉のみじめさの上塗りをしただけで、効果はなかった。そのころの本間大尉は、豊満な頬の肉はそがれ、笑いはまったくなかった。

 大正十年十二月、本間大尉は智子夫人と協議離婚した。本間大尉は智子の実家、田村家の要求どおり千円とも三千円ともいう金を支払った。

 本間大尉は仲人の鈴木中将に会い、金を払った上での離婚を報告した。鈴木中将は「腰抜けめ。そんなだらし無しだから、鼻毛を抜かれたんだぞ」と散々に本間大尉を罵倒した。

 本間大尉は親友の今村均大尉にも報告した。これを聞いた今村大尉も、「君は、なんと言う馬鹿か……」と言って、唖然とした。

 だが、本間大尉は「俺が金を払ったのは、七年間慰めてくれた恋の死屍(しかばね)の葬式費用のつもりだ」と答えて、涙を流した。

 この言葉を聞いた、今村大尉は、本間大尉の独特の性格に心を打たれて、「……馬鹿だなんて言った失敬な言葉を許してくれ給え。友人の多くは、仲人の中将同様、君をあざ笑うだろう。だが、今の今、僕は君の純情に心から敬服した」と感動に目を潤ませて答えた。

 大正十一年八月、本間雅晴大尉は陸軍少佐に昇進した。陸軍大学校の優秀な兵学教官ではあったが、上官、同僚からひそかに“腰抜け”と呼ばれていた。智子との離婚のいきさつが広く知れ渡っていた。

 「昭和陸海軍の失敗」(文藝春秋)の中で、半藤一利と保阪正康が本間雅晴将軍について、次の様に述べている。

 (半藤)軍人にならないほうが良かった軍人がいるとすれば、まさに本間でしょう。周囲からは「文人将軍」と言われ、たるんでいたと思われていた。

 (保阪)「西洋かぶれ」「腰抜け将軍」とも言われていたようです。評判が悪かったのは最初の夫人の問題もあるでしょう。日露戦争前に活躍した大物軍人・田村恰与造(たむら・いよぞう・旧制2期)の娘と結婚したのですが、これがまた奔放な女性で、本間が英国へ単身赴任している間に、女優として舞台にあがるは、作家の永井荷風と浮名をながすわと、軍人の妻らしからぬ振る舞いが多かった。荷風の「断腸亭日乗」にも交際相手として名前が出てきますよ。

 (半藤)そんな妻をたたき出すこともできないとは、軍人の風上にも置けない腰抜けだと散々な言われようだったそうですね。

 「私記・一軍人六十年の哀歓」(今村均・芙蓉書房)によると、大正十年、英国から帰って間もない頃、本間雅晴大尉と今村均大尉が、上原勇作元帥に徹底的に鍛えられたことが記してある。

 上原勇作元帥(陸士旧三)は当時、子爵で陸軍参謀総長の職にあった。上原元帥は東京帝国大学の前身である大学南校を中退して幼年学校、陸軍士官学校に入り、首席で卒業した。フランスに留学、フォンテブロー砲工学校に入り五年間フランスに滞在した。

 明治四十年男爵、師団長を経て、明治四十五年陸軍大臣に就任。その後大正三年教育総監、同四年陸軍大将、陸軍参謀総長になり、大正十二年までその職にあった。

 その間、大正十年四月に子爵、元帥になった。非常に勉学好きで、軍事の読書に励み、軍事学の権威でもあった。

 上原元帥は、陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて勤めた。陸軍史上、三長官を歴任したのは上原元帥と杉山元(すぎやま・げん)元帥(陸士一二・陸大二二)のみだった。

 英国から帰国すると、日曜日に、まず、今村均大尉が鎌倉の上原別荘に呼びつけられた。

 上原元帥は「君が英国から中央に送ってきた駐在員報告を、わしはみな読んでおる。それについて……」と容赦なく質問を今村大尉に浴びせた。

 今村大尉が「それは、歩兵の突撃力を減ずるためと思います」と答えると、

 上原元帥は、「思いますというのは、君がそう思うという意味か」と突っ込まれた。