横須賀から水上飛行機で黒島大佐は瀬戸内海の柱島に帰着した。戦艦「長門」の長官公室で、山本長官に報告した。
「だめだったか、やはり……」。黒島大佐を見るなり山本長官は訊いた。「軍令部は強硬でした。同説得しても受け付けません。虚仮の一心というやつです。申し訳ありません」と黒島大佐は応えた。
すると山本長官は「いや、ご苦労だった。孤軍奮闘で大変だったな」とねぎらった。黒島大佐は胸が熱くなった。山本長官は共感し、察してくれる。九歳年上なだけの山本長官に、黒島大佐は「親父」を感じていた。
山本長官は「米英蘭との同時戦争などやっていいわけがない。しかし、向こうから仕掛けてくる場合もある。同時作戦計画を作っておく必要はあるだろうな」と言った。
黒島大佐は「こっちも同時作戦計画を作成しましょうか。ハワイ作戦を入れて、軍令部のと二本立てになりますが」と訊いた。
山本長官は「かまうもんか。こっちの計画ができ次第中央に乗り込んで、さあ二つのうちどちらかをとれと強要してやる。却下されたら、私はケツをまくって海軍を辞めるよ。その覚悟でやる」と静かに言った。
黒島大佐は「分かりました。軍令部なんか問題にならない対三国同時作戦案をひねり出します」と答え、二人はうなずきあった。
昭和十六年七月十六日、第二次近衛内閣が総辞職し、翌々日第三次近衛内閣が発足した。対米強硬論者・松岡洋右外相を排除してアメリカの態度をやわらげようとする政変だった。
だが、閣僚十四名のうち陸海軍出身者は六名を数え、政党人は一人もいなくなった。いつでも戦争を始められる顔ぶれで組閣せざるを得ないほど、国際情勢は緊迫していた。
連合艦隊は、猛訓練を行っていた。飛行機の艦攻、艦爆も固定された目標への攻撃練習を繰り返していた。ハワイ奇襲攻撃を隠しての訓練指導だったので、ベテラン搭乗員たちには不満だった。
この時期、アメリカの石油の対日禁輸など封じ込め政策が露骨になり、「もう打って出るより仕方がないな」など連合艦隊司令部では開戦の決意がささやかれるなか、黒島大佐は、作戦計画作成に没頭していた。
昭和十六年八月七日、連合艦隊先任参謀・黒島亀人大佐は、水雷参謀・有馬高泰中佐を伴って上京した。
「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(小林久三・光人社NF文庫)と「遥かなり真珠湾」(阿部牧郎・祥伝社)によると、上京の目的は、山本長官の命令を受けて、黒島大佐自身が書き上げた連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃の作戦計画を軍令部に説明し承認させることだった。
軍令部からは、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐をはじめ、神重徳中佐、佐薙毅中佐、三代辰吉中佐、山本祐二中佐(鹿児島・海兵五一次席・海大三二・ドイツ駐在・連合艦隊参謀・第軍令部第一部第一課・連合艦隊参謀・大佐・第二艦隊参謀・戦死・少将)の各参謀が出席した。
軍令部の対米英蘭作戦計画案の内示を黒島大佐は求めた。目を通すと、ハワイ奇襲作戦は依然として織り込まれていなかった。
黒島大佐は猛然と抗議した。「従来の迎撃作戦を一歩も出てないではないか」。富岡大佐が受けて立った。「その通り。それが一番いいと考えたからだ」。
黒島大佐「今年の六月に、第一部がたてた年度作戦計画に目を通した。そこにあるのは迎撃作戦があるのみで、我々が伝えた開戦劈頭の真珠湾奇襲作戦など、影も形もないではないか」。
富岡大佐「当然だ。あなたの言う真珠湾奇襲攻撃など、投機的で、冒険的であり過ぎて、とうてい賛同できる代物ではない」。
黒島大佐「軍令部第一部は、連合艦隊を掌握下におこうとするのか」。
富岡大佐「いや、そうは考えない。しかし海軍中央としては、日米戦争になった場合、陸軍との関係を調整したり、ジャワに進出して南方の油田を確保する任務を負わされているのだ。あなたのように、真珠湾一本に絞って考えることはできない」。
黒島大佐「そうだとしても、真珠湾奇襲は、どうしても避けて通れぬものだ」。
富岡大佐「なぜ」。
黒島大佐「あなたは、アメリカとまともに戦って、勝ち目があると思っているのか」。
富岡大佐「大丈夫。勝てる」。
黒島大佐「本音か、それは」。
富岡大佐「もちろん」。
黒島大佐「私は、そうは思わない。アメリカと戦争を始めても、勝ち目はない」。
冒頭から、二人はぶつかりあった。福留部長が「まあそう熱くならずにハワイ作戦を一項目ずつ検討してみようじゃないか。私もこの作戦は採るべきではないと思うが……」と、とりなしたので、二人とも冷静さを取り戻した。
「だめだったか、やはり……」。黒島大佐を見るなり山本長官は訊いた。「軍令部は強硬でした。同説得しても受け付けません。虚仮の一心というやつです。申し訳ありません」と黒島大佐は応えた。
すると山本長官は「いや、ご苦労だった。孤軍奮闘で大変だったな」とねぎらった。黒島大佐は胸が熱くなった。山本長官は共感し、察してくれる。九歳年上なだけの山本長官に、黒島大佐は「親父」を感じていた。
山本長官は「米英蘭との同時戦争などやっていいわけがない。しかし、向こうから仕掛けてくる場合もある。同時作戦計画を作っておく必要はあるだろうな」と言った。
黒島大佐は「こっちも同時作戦計画を作成しましょうか。ハワイ作戦を入れて、軍令部のと二本立てになりますが」と訊いた。
山本長官は「かまうもんか。こっちの計画ができ次第中央に乗り込んで、さあ二つのうちどちらかをとれと強要してやる。却下されたら、私はケツをまくって海軍を辞めるよ。その覚悟でやる」と静かに言った。
黒島大佐は「分かりました。軍令部なんか問題にならない対三国同時作戦案をひねり出します」と答え、二人はうなずきあった。
昭和十六年七月十六日、第二次近衛内閣が総辞職し、翌々日第三次近衛内閣が発足した。対米強硬論者・松岡洋右外相を排除してアメリカの態度をやわらげようとする政変だった。
だが、閣僚十四名のうち陸海軍出身者は六名を数え、政党人は一人もいなくなった。いつでも戦争を始められる顔ぶれで組閣せざるを得ないほど、国際情勢は緊迫していた。
連合艦隊は、猛訓練を行っていた。飛行機の艦攻、艦爆も固定された目標への攻撃練習を繰り返していた。ハワイ奇襲攻撃を隠しての訓練指導だったので、ベテラン搭乗員たちには不満だった。
この時期、アメリカの石油の対日禁輸など封じ込め政策が露骨になり、「もう打って出るより仕方がないな」など連合艦隊司令部では開戦の決意がささやかれるなか、黒島大佐は、作戦計画作成に没頭していた。
昭和十六年八月七日、連合艦隊先任参謀・黒島亀人大佐は、水雷参謀・有馬高泰中佐を伴って上京した。
「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(小林久三・光人社NF文庫)と「遥かなり真珠湾」(阿部牧郎・祥伝社)によると、上京の目的は、山本長官の命令を受けて、黒島大佐自身が書き上げた連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃の作戦計画を軍令部に説明し承認させることだった。
軍令部からは、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐をはじめ、神重徳中佐、佐薙毅中佐、三代辰吉中佐、山本祐二中佐(鹿児島・海兵五一次席・海大三二・ドイツ駐在・連合艦隊参謀・第軍令部第一部第一課・連合艦隊参謀・大佐・第二艦隊参謀・戦死・少将)の各参謀が出席した。
軍令部の対米英蘭作戦計画案の内示を黒島大佐は求めた。目を通すと、ハワイ奇襲作戦は依然として織り込まれていなかった。
黒島大佐は猛然と抗議した。「従来の迎撃作戦を一歩も出てないではないか」。富岡大佐が受けて立った。「その通り。それが一番いいと考えたからだ」。
黒島大佐「今年の六月に、第一部がたてた年度作戦計画に目を通した。そこにあるのは迎撃作戦があるのみで、我々が伝えた開戦劈頭の真珠湾奇襲作戦など、影も形もないではないか」。
富岡大佐「当然だ。あなたの言う真珠湾奇襲攻撃など、投機的で、冒険的であり過ぎて、とうてい賛同できる代物ではない」。
黒島大佐「軍令部第一部は、連合艦隊を掌握下におこうとするのか」。
富岡大佐「いや、そうは考えない。しかし海軍中央としては、日米戦争になった場合、陸軍との関係を調整したり、ジャワに進出して南方の油田を確保する任務を負わされているのだ。あなたのように、真珠湾一本に絞って考えることはできない」。
黒島大佐「そうだとしても、真珠湾奇襲は、どうしても避けて通れぬものだ」。
富岡大佐「なぜ」。
黒島大佐「あなたは、アメリカとまともに戦って、勝ち目があると思っているのか」。
富岡大佐「大丈夫。勝てる」。
黒島大佐「本音か、それは」。
富岡大佐「もちろん」。
黒島大佐「私は、そうは思わない。アメリカと戦争を始めても、勝ち目はない」。
冒頭から、二人はぶつかりあった。福留部長が「まあそう熱くならずにハワイ作戦を一項目ずつ検討してみようじゃないか。私もこの作戦は採るべきではないと思うが……」と、とりなしたので、二人とも冷静さを取り戻した。