軍令部の参謀たちはハワイ奇襲作戦について、欠点を並べ立てた。だが、黒島大佐も一歩も引かずに、次のように応じた。
「機密保持はもちろん大事です。万全を期す方策があるから心配無用。各空母の飛行長さえも、ハワイ奇襲のことなど全く知らずに訓練に励んでおるのです」
「本作戦が投機的であることは認めます。だが、戦争に冒険はつきもの。リスクのない戦争なんてこの世に存在しません。ギャンブルを怖れていたら戦争はできない」
「南方作戦に空母を使えれば、これに越したことはないでしょう。だが、ハワイ作戦に空母は絶対に必要。南方にまわす余裕はありません。ハワイ作戦が成功すれば、南方作戦は一気に有利になるのだから、それで良いではありませんか」
「ハワイの米太平洋艦隊を潰しておかないと、連合艦隊はおちついて南方作戦を遂行できんのです。南方作戦に熱中するうち、米太平洋艦隊の空母に東京を空襲されたらどうするのですか。我々は全てに優先してハワイを叩かねばならんのです」。
三時間激論をかわしたが、両者ともついに合意できなかった。このままでは帰れないので、黒島大佐は近く海軍大学校でハワイ作戦の図上演習をやりたいと申し入れた。
海軍大学校における図上演習は例年十月か十一月に行われるが、開戦が近づいており、一日も早く実施される必要があった。
富岡大佐は「分かった。図上演習は九月十一日から二十日までの予定だが、十六日、十七日をハワイ作戦にあてよう」と答えた。軍令部にできる精一杯の譲歩だった。
黒島大佐は、またしても海軍中央に完敗した。大艦巨砲主義という海軍中央の伝統的な迎撃作戦構想の壁は厚かった。奇想に富む黒島大佐の構想の実現を阻む海軍中央の障壁は、あまりにも巨大だった。
昭和十六年八月十一日、連合艦隊参謀長に宇垣纏少将が就任した。山本五十六長官は宇垣少将を快く思っていなかった。
その年の春、参謀長に宇垣少将をどうかという話があった際、艦隊勤務経験の不足を理由に断った。だが、今回は宇垣少将が第八戦隊司令官を務めた以後の人事なので、受け入れざるを得なかった。
昭和十五年の夏、海軍中枢部が陸軍から日独伊三国同盟への加入を迫られたとき、山本長官は米内光政大将、井上成美中将とともに生命がけで加盟反対を叫んでまわった。
だが、第二次近衛内閣の吉田善吾海相が病気で退任し、及川古志郎大将が海相に就任すると、及川海相は陸海軍の協調を第一義とし、三国同盟推進派の豊田貞次郎中将を次官に据えた。
さらに、軍務局長・阿部勝雄少将、軍令部次長・近藤信竹中将、第一部長・宇垣纏少将を次々に説得して賛成派に引き入れ、遂に三国同盟を成立させた。
宇垣少将はもともと三国同盟反対派で、最後まで反対したのだが、次々に海軍首脳部が賛成に回り、最後に及川海相に呼びつけられ説得されたのだ。
だが、山本長官にすれば、宇垣少将は三国同盟支持派の一員であることに違いはなかった。
さらに、航空畑出身の山本長官は航空決戦主義だったが、宇垣少将は砲術の権威であり、大艦巨砲主義者の筆頭であった。
また、山本長官は、米国ハーバード大学留学や米国駐在武官などアメリカ駐在の経験が多かったが、宇垣少将はドイツ駐在武官補佐官でドイツ駐在を経験していた。
宇垣は頭脳優秀で切れ者との評判だったが、性格は倣岸不遜で、人前でもかまわず部下を怒鳴りつけた。部下思いの山本長官はそんな宇垣少将の性格を嫌っていた。
山本長官は茶目で冗談も言い、賭け事が好きだったが、宇垣少将は、めったに冗談も言わず、趣味もなく、手の空いたときには机に向かって日記(戦藻録)をつけており、人とは打ち解けなかった。
以上のようなことで、山本長官と宇垣参謀長はどこまでも対照的で相容れなかった。山本長官は人の好き嫌いが激しく、気に入らぬ相手には口もきかなかったという。
連合艦隊参謀長は司令長官の相談役であり、先任参謀の監視役でもある。司令長官と意志の疎通をはかり、先任参謀ら幕僚の仕事に司令長官の意向を正しく反映させるのが職務である。
だが、山本司令長官と宇垣参謀長の間にそうした健全な関係は生じるはずはなかった。
「機密保持はもちろん大事です。万全を期す方策があるから心配無用。各空母の飛行長さえも、ハワイ奇襲のことなど全く知らずに訓練に励んでおるのです」
「本作戦が投機的であることは認めます。だが、戦争に冒険はつきもの。リスクのない戦争なんてこの世に存在しません。ギャンブルを怖れていたら戦争はできない」
「南方作戦に空母を使えれば、これに越したことはないでしょう。だが、ハワイ作戦に空母は絶対に必要。南方にまわす余裕はありません。ハワイ作戦が成功すれば、南方作戦は一気に有利になるのだから、それで良いではありませんか」
「ハワイの米太平洋艦隊を潰しておかないと、連合艦隊はおちついて南方作戦を遂行できんのです。南方作戦に熱中するうち、米太平洋艦隊の空母に東京を空襲されたらどうするのですか。我々は全てに優先してハワイを叩かねばならんのです」。
三時間激論をかわしたが、両者ともついに合意できなかった。このままでは帰れないので、黒島大佐は近く海軍大学校でハワイ作戦の図上演習をやりたいと申し入れた。
海軍大学校における図上演習は例年十月か十一月に行われるが、開戦が近づいており、一日も早く実施される必要があった。
富岡大佐は「分かった。図上演習は九月十一日から二十日までの予定だが、十六日、十七日をハワイ作戦にあてよう」と答えた。軍令部にできる精一杯の譲歩だった。
黒島大佐は、またしても海軍中央に完敗した。大艦巨砲主義という海軍中央の伝統的な迎撃作戦構想の壁は厚かった。奇想に富む黒島大佐の構想の実現を阻む海軍中央の障壁は、あまりにも巨大だった。
昭和十六年八月十一日、連合艦隊参謀長に宇垣纏少将が就任した。山本五十六長官は宇垣少将を快く思っていなかった。
その年の春、参謀長に宇垣少将をどうかという話があった際、艦隊勤務経験の不足を理由に断った。だが、今回は宇垣少将が第八戦隊司令官を務めた以後の人事なので、受け入れざるを得なかった。
昭和十五年の夏、海軍中枢部が陸軍から日独伊三国同盟への加入を迫られたとき、山本長官は米内光政大将、井上成美中将とともに生命がけで加盟反対を叫んでまわった。
だが、第二次近衛内閣の吉田善吾海相が病気で退任し、及川古志郎大将が海相に就任すると、及川海相は陸海軍の協調を第一義とし、三国同盟推進派の豊田貞次郎中将を次官に据えた。
さらに、軍務局長・阿部勝雄少将、軍令部次長・近藤信竹中将、第一部長・宇垣纏少将を次々に説得して賛成派に引き入れ、遂に三国同盟を成立させた。
宇垣少将はもともと三国同盟反対派で、最後まで反対したのだが、次々に海軍首脳部が賛成に回り、最後に及川海相に呼びつけられ説得されたのだ。
だが、山本長官にすれば、宇垣少将は三国同盟支持派の一員であることに違いはなかった。
さらに、航空畑出身の山本長官は航空決戦主義だったが、宇垣少将は砲術の権威であり、大艦巨砲主義者の筆頭であった。
また、山本長官は、米国ハーバード大学留学や米国駐在武官などアメリカ駐在の経験が多かったが、宇垣少将はドイツ駐在武官補佐官でドイツ駐在を経験していた。
宇垣は頭脳優秀で切れ者との評判だったが、性格は倣岸不遜で、人前でもかまわず部下を怒鳴りつけた。部下思いの山本長官はそんな宇垣少将の性格を嫌っていた。
山本長官は茶目で冗談も言い、賭け事が好きだったが、宇垣少将は、めったに冗談も言わず、趣味もなく、手の空いたときには机に向かって日記(戦藻録)をつけており、人とは打ち解けなかった。
以上のようなことで、山本長官と宇垣参謀長はどこまでも対照的で相容れなかった。山本長官は人の好き嫌いが激しく、気に入らぬ相手には口もきかなかったという。
連合艦隊参謀長は司令長官の相談役であり、先任参謀の監視役でもある。司令長官と意志の疎通をはかり、先任参謀ら幕僚の仕事に司令長官の意向を正しく反映させるのが職務である。
だが、山本司令長官と宇垣参謀長の間にそうした健全な関係は生じるはずはなかった。