陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

384.真崎甚三郎陸軍大将(4)真崎中将と参謀総長・閑院宮元帥との関係は悪化していた

2013年08月01日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 昭和七年五月二十六日、斉藤実(さいとう・まこと・岩手・海兵六・「秋津州」艦長・「厳島」艦長・海軍次官・少将・中将・艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーブ海軍軍縮会議全権・朝鮮総督・首相・内大臣・二・二六事件で暗殺される・大勲位菊花大綬章)が組閣、荒木陸相の留任が決まった。

 八月の定期人事異動ではさらに荒木中将・真崎中将一派の勢力拡大を狙った。荒木陸相から人事を任された真崎次長の独壇場だった。

 真崎主導によって、強引に自派の人材を配した。例えば柳川平助中将(やながわ・へいすけ・長崎・陸士一二・陸大二四恩賜・陸大教官・国際連盟派遣・騎兵第二〇連隊長・参謀本部課長・少将・騎兵第一旅団長・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・病死)を陸軍次官に登用し、陸軍次官に就任したばかりの小磯國昭中将と入れ替えた。

 柳川中将は小磯中将と陸士同期だが、軍政方面の経験は全くなかった。誰の眼にも、自分の身内で固める私情人事に見えた。真崎中将の浪花節的人情が悪い方へ出て来た。

 荒木中将がしきりに「皇道」「皇軍」といった言葉を連発することから、彼らの派閥を「皇道派」と呼ぶようになった。

 皇道派が打ち出した政策は、数年来陸軍が唱えてきた軍部革新、農村救済、国防対策を基本とするが、より国体主義的であり、機関説的天皇から統帥権的天皇へのより強い転換を土台としていた。

 それらの政策は、農村救済と国家改造を目指す革新派青年将校たちに歓迎され、皇道派は彼らからの人気をさらに加熱させた。

 荒木中将も、真崎中将も、若い青年将校と接するのが好きだった。彼らの来訪に対しても、常に親しく接し、懇談した。

 世田谷の真崎中将の住まいは将官にしては意外なほど質素で、そのような廉潔な真崎中将の生き方も青年将校たちの共感を呼んでいた。

 参謀次長に就任した真崎中将と参謀総長・閑院宮元帥との関係は悪化していた。皇族である閑院宮元帥の心証は害されていた。

 真崎参謀次長は、参謀総長である閑院宮元帥に対する職務の遂行を次のように語っている。

 「私は参謀次長として、宮殿下(閑院宮元帥)に御決裁を仰がなかった。宮殿下に責任がいくような決裁は仰ぐべきではないと考えた。宮の御徳は仰いだけれども、その能力は仰がなかった」

 「だからいつも、“これとこれと、これこれの案がございますが、私はこの案がよろしゅうございます”と、いうようにして、あの満州事変を乗り切った」。

 “皇族としての権威は尊重して、その徳は仰いだ。しかし、能力は仰がなかった”というこの真崎次長の言葉は、一面においては皇族の権威を絶対的に崇拝していると受け取ることもできるが、反面、皇族総長に対する無能の評価と抗議としても受け取れる。

 閑院宮元帥は、フランスの士官学校や陸軍大学で学び、日露戦争でも騎兵旅団長として戦いロシア軍を敗走させ日本軍の勝利に大いに貢献している。軍人としての見識も経歴もあり、決して飾り物ではなかった。

 だから、真崎次長のこのような態度は、閑院宮元帥にとっては傲岸不遜に見え、皇族をないがしろにする不埒な奴だと感じられた。

 しかも、閑院宮元帥は皇族の最長老であり、昭和天皇が一目も二目もおいていた。だからこのような真崎次長の態度は、昭和天皇の心証も悪くした。

 当時、真崎中将はすでに最首席の序列で陸軍大将に昇進することが内定していた。大将になれば当然参謀次長は辞任するということが内規だったので、早晩、真崎中将の次長辞任は確定的ではあった。

 だが、大将に昇進と同時に参謀総長に昇進するとも言われていた。現在実質的総長は真崎中将なのだから、閑院宮元帥が自ら退いて、参謀総長を代わってくれれば、真崎大将の参謀総長が実現するのだ。

 閑院宮元帥が真崎次長を早く辞めさせたがっているという風評が流れた。事実、閑院宮元帥は南大将を通じて、荒木陸相に対して「真崎は三月で大将となる。交代手続きを急げ」と言ってきた。自分は動かないから真崎中将の方を代えろということだった。