昭和八年暮れ、荒木貞夫大将が陸相辞任を言い出した。理由は病気だが、これ以上続けて、汚点を重ねたくないというのが本心だった。精神主義の限界だった。
「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、昭和九年一月三日、陸軍大臣・荒木大将は、急性肺炎で、絶対安静となった。
このままの状態では、一月下旬に再開される第六十五回議会に登院することは不可能である。荒木大将は辞任を決意した。
真崎大将は「後継陸相は自分の番だ」と思った。荒木大将が陸相として、それなりにやれたのは真崎大将が後ろにいたからである。
「俺ならもっと見事にやってみせる」と思ったが、真崎大将は、「俺にやらせてほしい」と言い出せる性格ではなかった。
序列からいけば、荒木大将や真崎大将の陸士一期上の教育総監・林銑十郎大将(はやし・せんじゅうろう・石川・陸士八・陸大一七・歩兵第二旅団長・中将・陸大校長・近衛師団長・朝鮮軍司令官・大将・教育総監・陸軍大臣・二二六事件後予備役・総理大臣・大日本興亜連盟総裁・病没・正二位・勲一等・功四級)が陸軍大臣になるのが筋ではあった。
だが、荒木大将は当然、真崎大将を陸相にしたいと思っていた。ここで真崎大将が「自分の番だ」と言えばよかったのだが、それが言えなくて、「任せる」と簡単に告げた。
荒木大将は、林大将が受諾するかどうかは別として、まず林大将に出馬懇請の声をかけてみようと思った。林大将が即座に受諾したならば、これを認めて、その後任に真崎大将をという算段だった。
だが、林大将が固辞した場合には、林大将をして参謀総長・閑院宮元帥に対して真崎大将推薦の進言をしてもらうことにしようと思った。
昭和九年一月十九日午後、陸相官邸で、陸相・荒木大将と教育総監・林大将は会談を行った。荒木大将は「俺はこの通りで辞任するから、後任は君にやってもらいたい」と切り出した。
すると、林大将は「俺よりも真崎の方が適任だとも思うが、閑院宮殿下にもご相談の上決定したいと思う」と答えた。
荒木大将は「そうか、では、俺はこの状態で参上できないから、柳川平助次官をつけるから、ご足労でも殿下と話し合ってくれたまえ」と述べた。
荒木大将の肝では、荒木大将の腹心で皇道派の切れ者である柳川次官を同行させれば、「いかに宮殿下といえども、次官の柳川中将の前で、真崎陸相反対をはっきりと主張されることはあるまい」という一縷の望みがあったのである。
こうして、林大将と柳川中将には、陸相秘書官・有末精三少佐(ありすえ・せいぞう・北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・イタリア陸軍大学卒・陸相秘書官・イタリア駐在武官・大佐・陸軍省軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・対連合軍連絡委員長・戦後日本郷友連盟会長)が同行した。
「有末精三回顧録」(有末精三・芙蓉書房出版)によると、三人は一月十九日午後五時、新宿駅から小田急電車に乗った。
小田原駅に到着したのは午後六時半を過ぎていたが、有末氏によると、電車の中では林大将と柳川中将は一言の会話もなかったという。それほど微妙な空気であった。
両将軍は閑院宮元帥の強羅の別邸の応接室に通された。その間、有末少佐は別室でお茶と寿司を頂戴した。別室といっても、襖一枚の仕切りだったので、中での話しの模様は手に取るように聞こえた。
林大将は懐中から印刷物を取り出し、参謀総長・閑院宮元帥に見せて次のように言って真崎大将を推薦した。
「このような状態でありますので、自分が大臣をお引き受けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任すれば、この図表に示されているように統制も十分とれるだろうと思います」。
陸軍次官・柳川中将も、そばから林大将の提案に和して真崎大将推せんに共鳴した。
だが、閑院宮元帥は「それは、いわゆる怪文書ではないか」と反問した。これに対し、林大将は次のように答えた。
「怪文書といえば怪文書でありますが、このように内部がゴタゴタしているような世評がありますから、これが統制にはなおさら人望のある真崎大将にお願いするのが適当だと存じます」。
「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、昭和九年一月三日、陸軍大臣・荒木大将は、急性肺炎で、絶対安静となった。
このままの状態では、一月下旬に再開される第六十五回議会に登院することは不可能である。荒木大将は辞任を決意した。
真崎大将は「後継陸相は自分の番だ」と思った。荒木大将が陸相として、それなりにやれたのは真崎大将が後ろにいたからである。
「俺ならもっと見事にやってみせる」と思ったが、真崎大将は、「俺にやらせてほしい」と言い出せる性格ではなかった。
序列からいけば、荒木大将や真崎大将の陸士一期上の教育総監・林銑十郎大将(はやし・せんじゅうろう・石川・陸士八・陸大一七・歩兵第二旅団長・中将・陸大校長・近衛師団長・朝鮮軍司令官・大将・教育総監・陸軍大臣・二二六事件後予備役・総理大臣・大日本興亜連盟総裁・病没・正二位・勲一等・功四級)が陸軍大臣になるのが筋ではあった。
だが、荒木大将は当然、真崎大将を陸相にしたいと思っていた。ここで真崎大将が「自分の番だ」と言えばよかったのだが、それが言えなくて、「任せる」と簡単に告げた。
荒木大将は、林大将が受諾するかどうかは別として、まず林大将に出馬懇請の声をかけてみようと思った。林大将が即座に受諾したならば、これを認めて、その後任に真崎大将をという算段だった。
だが、林大将が固辞した場合には、林大将をして参謀総長・閑院宮元帥に対して真崎大将推薦の進言をしてもらうことにしようと思った。
昭和九年一月十九日午後、陸相官邸で、陸相・荒木大将と教育総監・林大将は会談を行った。荒木大将は「俺はこの通りで辞任するから、後任は君にやってもらいたい」と切り出した。
すると、林大将は「俺よりも真崎の方が適任だとも思うが、閑院宮殿下にもご相談の上決定したいと思う」と答えた。
荒木大将は「そうか、では、俺はこの状態で参上できないから、柳川平助次官をつけるから、ご足労でも殿下と話し合ってくれたまえ」と述べた。
荒木大将の肝では、荒木大将の腹心で皇道派の切れ者である柳川次官を同行させれば、「いかに宮殿下といえども、次官の柳川中将の前で、真崎陸相反対をはっきりと主張されることはあるまい」という一縷の望みがあったのである。
こうして、林大将と柳川中将には、陸相秘書官・有末精三少佐(ありすえ・せいぞう・北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・イタリア陸軍大学卒・陸相秘書官・イタリア駐在武官・大佐・陸軍省軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・対連合軍連絡委員長・戦後日本郷友連盟会長)が同行した。
「有末精三回顧録」(有末精三・芙蓉書房出版)によると、三人は一月十九日午後五時、新宿駅から小田急電車に乗った。
小田原駅に到着したのは午後六時半を過ぎていたが、有末氏によると、電車の中では林大将と柳川中将は一言の会話もなかったという。それほど微妙な空気であった。
両将軍は閑院宮元帥の強羅の別邸の応接室に通された。その間、有末少佐は別室でお茶と寿司を頂戴した。別室といっても、襖一枚の仕切りだったので、中での話しの模様は手に取るように聞こえた。
林大将は懐中から印刷物を取り出し、参謀総長・閑院宮元帥に見せて次のように言って真崎大将を推薦した。
「このような状態でありますので、自分が大臣をお引き受けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任すれば、この図表に示されているように統制も十分とれるだろうと思います」。
陸軍次官・柳川中将も、そばから林大将の提案に和して真崎大将推せんに共鳴した。
だが、閑院宮元帥は「それは、いわゆる怪文書ではないか」と反問した。これに対し、林大将は次のように答えた。
「怪文書といえば怪文書でありますが、このように内部がゴタゴタしているような世評がありますから、これが統制にはなおさら人望のある真崎大将にお願いするのが適当だと存じます」。