陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

387.真崎甚三郎陸軍大将(7)「何レニシ(テ)モ彼レ南次郎ノ卑劣漢ハ唾棄スベキモノナリ」

2013年08月22日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 この林大将の答弁を聞くと、突然、閑院宮元帥は大きな声を出して、次のように語気を強めて言ったのだった。

 「君達は我輩に真崎を無理やり押し付けるのか。わたくしは久しく真崎を次長として使っていてよく知っている。林大将、貴官はこのさい進んで難局を引き受けてくれたまえ」。

 林大将も柳川中将も一瞬言葉をのんだ。しばらくして、林大将は「それでは、真崎大将を教育総監にご推せん下さい」と述べた。

 閑院宮元帥はそれには賛意を表した。柳川中将も同意した。ここで実質的な三長官会議は終わり、林大将が陸相に就任することが決まった。林大将と柳川中将はただちに帰京して荒木陸相にこの旨を報告して了承を得た。

 翌日の一月二十日の朝、荒木陸相は病床から起き上がって、勲一等瑞宝章を左肋に帯びた軍服に着替えて、机の上に準備させていた美濃白紙に「病�默其任に堪えず、謹んで骸骨を乞い奉る」と墨痕あざやかに認ため、しばし宮城に遥拝黙祷をささげて、再び床についた。

 午後、宮中において斉藤実首相侍立のもとに、林銑十郎大将の陸軍大臣親任式が挙行された。同じく一月二十三日、真崎大将は教育総監兼軍事参議官に任命された。

 だが、この人事が決定した日、真崎大将は憤りを込めて次のように記している(「真崎甚三郎日記」一月二十二日)。

 「何レニシ(テ)モ彼レ南次郎ノ卑劣漢ハ唾棄スベキモノナリ」。

 片や、南大将も次のように記している(「南次郎日記」一月二十一日)。

 「此ノ日、柳川、真崎ハ最モ策動ス。一時荒木留任ヲナサントシタルモ遂ニ成ラズ」。

 両派閥の暗闘をうかがわせる互いの日記である。真崎大将といい、南大将といい、それぞれの派閥を擁して対立を深めていくが、策士ということでは、宇垣大将を背景とする南大将の方が真崎大将を上まわっていた。

 南大将は、この時期すでに林大将としきりに接触して、真崎大将、荒木大将からの切り離しを画策し始めていた。

 昭和九年二月七日の「真崎甚三郎日記」によると、真崎大将腹心の憲兵司令官・秦真次中将(はた・しんじ・福岡・陸士一二・陸大二一・初代陸軍省新聞班長・大佐・歩兵第二一連隊長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・奉天特務機関長・中将・憲兵司令官・第二師団長・予備役)が真崎大将を訪ねて来て、林大将を警戒するよう早くも進言している。

 事実、「南次郎日記」(二月二十一日)によると、この日、南大将は、新陸相の林大将と会って、宇垣大将・南大将一派を排除しないと確約させている。

 この時、南大将は、同時に秦真次中将を憲兵司令官から外すよう強く求めているが、それは、さすがに林陸相は拒絶した。林陸相は真崎大将らの派閥には入っていないが、お互いに助け合い、家族ぐるみで付き合うほどの仲だった。

 東京湾要塞司令官で退役になる寸前の林中将を陸軍大学校校長に強く推して実現させたのは、当時の真崎中将と荒木中将であり、その後、弘前で腐っていた真崎中将が第一師団長になれたのは、武藤教育総監の下にいた本部長・林中将の尽力が大きかった。

 だが、真崎大将は複雑な心境だった。林大将に対して、同志としながらも信頼し切ってはいなかった。「真崎甚三郎日記」によると、林陸相が実現した時点で、すでに林大将に対して警戒心を抱いていた。例えば三月十九日の日記には次のように記してある。

 「彼(林)ハ陸相就任時ノ言動ト総合スルニ決シテ誠意アル人間ニアラズ。此ハ今日予ガ気付キシニアラザレドモ何トカシテ調和シテ難関ヲ抜ケント自我ヲ滅シテ努力ツツ……」。

 この日記から、真崎大将は、真崎大将、荒木大将、林大将の三者の間に亀裂を生じないように努力していることがうかがわれる。

 昭和九年十月一日、陸軍省新聞班が公刊した「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットの書き出しは次のようなものであった。

 「たたかいは創造の父、文化の母である。試練の個人における、競争の国家における、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。……」。

 悪寒の走るような戦争賛美の調子で書き始められている。この五十ページ足らずの小冊子は、通称「陸パン」と呼ばれ、注目された。