陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

475.東郷平八郎元帥海軍大将(15)露国海軍は世間で思う程恐ろしいものではない

2015年05月01日 | 東郷平八郎元帥
 明治三十三年六月、清国で義和団の乱が勃発した。当初は「義和団」と称する秘密結社による、外国人排斥運動だった。

 だが、清朝の西太后がこの反乱を支持して、六月二十一日、欧米列国に対して宣戦布告したため、欧米列国は北京に軍隊と軍艦を派遣した。

 日本も軍艦と五師団約八〇〇〇名を派遣した。宣戦布告から、二ケ月後に義和団の乱は制圧され、清朝は莫大な賠償金を支払う事になった。

 明治三十三年六月十九日、義和団の乱がいよいよ重大性を帯びて来たので、常備艦隊司令長官・東郷平八郎中将は、旗艦の装甲巡洋艦「常盤」(九七〇〇トン)に座上して、防護巡洋艦「高砂」(四一五五トン)、防護巡洋艦「秋津洲」(三一五〇トン)などの艦を率いて清国大沽(たいこ)に向かった。

 「元帥の品格・東郷平八郎の実像」(嶋田耕一・毎日ワンズ)によると、各国からも、精鋭な軍艦を大沽に入港させていた。

 各国の軍艦数は、日本五隻、ロシア六隻、ドイツ六隻、アメリカ二隻、フランス五隻、イタリア一隻、オーストリア一隻で、世界各国の軍艦が揃って、壮観だった。

 だが、各国の軍艦とも、密かに他国軍艦の行動に最新の注意を払って観察し、他日の参考にしようとしていた。

 東郷中将も、旗艦「常盤」の艦橋から、これら列強の軍艦の動静を眺めていたが、ある将官に向かって、次のように言った。

 「自分は今度の出張中、特に露国海軍について観察したが、それによると露国海軍は世間で思う程恐ろしいものではない。ことに規則も厳粛ではなく訓練も不行き届きの点がある」

 「最も驚いたのは、軍艦を運送船の代理に使用していたことである。すなわち軍艦でもって陸兵や軍需要品などの運搬をしていたが、これは明らかに軍艦の本分を軽視したものである」

 「こうしていつも運搬船の代用としていたならば、その精力をあらぬ方面に消磨し、一朝事ある時充分その本分を発揮し得ないのは当然であって、苟も海軍に関係する者のもっとも戒むべきことである。また、これと同時に露国が、海上運輸機関の不備までも暴露したもので、その出師準備は存外不整頓のようだ」。

 この東郷中将の鋭利な観察は、後の日露大海戦の作戦上多大の参考になった。

 六月二十九日、当時旅順にいたロシア政界の大立物でロシア皇帝の寵臣、関東省総督アレクセーエフ海軍中将は、この義和団事件の形勢を見る為、軍艦に搭乗して、大沽に入港していた。

 アレクセーエフ中将はわざわざ「常盤」に東郷中将を訪ねて来た。そしてくつろいだ態度の中に、大国の背景をほのめかしつつ、何やかやと、極めて巧妙な外交辞令で相対した。

 だが、彼の腹の中は、この訪問により、日本海軍の枢機に参与する東郷中将の口から不用意の間に、ある意向を吐かせようとしていた。

 ところが、東郷中将の目には、アレクセーエフ中将が何のために来訪したかということが、分りすぎるほど分っていた。だから、腹を引き締めて、独特の黙殺主義を以ってこれに対応した。

 そうとも知らず、アレクセーエフ中将は、いつの間にか、すっかりいい気になって、かえって東郷中将が聞きたかったことを、不用意の間に滔々(とうとう)として語った。

 これにより、東郷中将は、日本はどうしてもロシアと戦うべき運命にあることが、明瞭に分ったのである。

 明治三十六年十月十二日、陸軍参謀次長に児玉源太郎(こだま・げんたろう)陸軍中将(山口県周南市・下士官から士官に昇進・参謀本部第一局長・陸軍大学校長・少将・陸軍次官兼軍務局長・男爵・中将・第三師団長・台湾総督・陸軍大臣・内務大臣・文部大臣・陸軍参謀次長・大将・日露戦争で満州軍総参謀長・台湾総督・子爵・南満州鉄道創立委員長・急死)が就任した。

 「完全勝利の鉄則・東郷平八郎とネルソン提督」(生出寿・徳間文庫)によると、参謀本部次長に就任したばかりの児玉源太郎中将は、十月十五日、霞が関の海軍省に出掛けた。

 海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)海軍中将(鹿児島市鍛治屋町・海兵二・巡洋艦「高雄」艦長・海軍省主事兼副官・少将・軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・海軍大臣・伯爵・首相・予備役・退役・首相・従一位・大勲位・功一級)に会うためだった。