第三艦隊(旧式の二等・三等巡洋艦と二等戦艦が主力)司令長官・片岡七郎(かたおか・しちろう)中将(鹿児島・海兵三・海軍兵学校砲術教官・佐世保鎮守府参謀・ドイツ駐在武官・大佐・ドイツ駐在武官・装甲艦「金剛」艦長・砲術練習所所長・一等戦艦「八島」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・呉鎮守府艦隊司令長官・呉鎮守府艦政部長・竹敷要港部司令官・中将・第三艦隊司令長官・日露戦争・第一艦隊司令長官・艦政本部長・舞鶴鎮守府司令長官・大将・男爵・正二位・勲五等・功四級)。
第二艦隊参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大佐(広島・海兵七次席・海大甲号一・軍務局第一課長・常備艦隊参謀長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・日露戦争・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・ワシントン会議全権・首相・元帥・子爵・正二位・大勲位・功二級)。
第二艦隊先任参謀兼作戦参謀・佐藤鉄太郎(さとう・てつたろう)中佐(山形・海兵一四・五席・海軍大学校教官・巡洋艦「宮古」副長・中佐・装甲巡洋艦「出雲」副長・常備艦隊参謀・第二艦隊参謀・日露戦争・一等戦艦「朝日」副長・砲艦「龍田」副長・海軍大学校選科学生・海軍大学校教官・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・巡洋艦「阿蘇」艦長・海軍大学校教官・海軍大学校教頭・少将・軍令部第四班長兼海軍大学校教官・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・軍令部次長・海軍大学校校長・中将・舞鶴鎮守府司令長官・学習院教授・貴族院議員・正三位・勲一等・功三級)。
ロシア皇帝ニコライ二世は明治三十七年二月九日朝、対日宣戦布告をし、日本は翌二月十日、対露宣戦布告をした。
ロシア太平洋艦隊は、緒戦から、日本海軍に一方的にやられ、主力は旅順に閉じこもっていた。日本海軍の戦略は、ロシア本国から強大なバルチック艦隊が日本に押し寄せてくる前に、旅順とウラジオストックのロシア太平洋艦隊を撃滅し、そのあと、バルチック艦隊を迎え撃つというものだった。
旅順の極東総督・アレクセーエフ海軍大将は、太平洋艦隊司令長官・スタルク海軍中将に対して次のような命令を出していた。
「東郷艦隊との決戦は絶対にするな。艦隊保全を第一とすべし。そして、日本と大陸との補給線を遮断し、朝鮮、満州の日本陸軍を孤立させるべし」。
アレクセーエフ海軍大将の戦略は、次のようなものだった。
「旅順に太平洋艦隊の主力を終結させておき、東郷艦隊を近くに誘って釘付けにする。その隙にウラジオ艦隊を朝鮮海峡に出撃させ、日本の輸送船団を襲撃させる。やがて本国からバルチック艦隊が回航されてくれば、太平洋艦隊はこれと合流し、約半分の兵力の日本艦隊と決戦して、これを撃滅する」。
一方、日本の連合艦隊は、このようなロシア太平洋艦隊を、バルチック艦隊が来る前に撃滅しなければならなかった。だが、旅順のロシア艦隊は、日本の駆逐艦の夜襲でも、戦艦・巡洋艦部隊の砲撃でも撃滅できなかった。
このような状況から、連合艦隊では、狭い旅順港口に、老朽船舶を数隻沈め、観戦の出入りを不可能にする閉塞作戦が考えられた。
だが、この閉塞作戦に対して、連合艦隊作戦参謀・秋山真之少佐は、次のような理由で、反対の立場をとった。
「サーチライト(探照灯)を用いるロシア軍の旅順要塞の砲撃は、夜間でも有効となり、非武装で速度の遅い閉塞船を港口にうまく沈めることは不可能であろう。また、敵の猛射撃で閉塞隊員は全員戦死する可能性がある」。
連合艦隊司令長官・東郷平八郎中将も、部下を死地に投ずることを嫌っていたので、この作戦に不同意であった。
一方、この閉塞作戦に賛成し、自らその指揮官を熱望している先任参謀・有馬良橘中佐は次のように不退転の決意を主張した。
「時期が適切で実行者の決心が固ければ、絶対に不可能という事は無い。また、もしその目的が達成できずに撃沈されるようなことがあっても、一つは我が軍の士気を鼓舞できるし、一つは我が武勇を敵に示して余りあると言える」。
二月十一日、有馬中佐から説明を受け、誘われて、戦艦「日向」水雷長・広瀬武夫(ひろせ・たけお)少佐(大分・小学校教師・海兵一五・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で旅順閉塞作戦に従事・第二回閉塞作戦で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死・中佐)などは閉塞作戦に同意した。
二月十四日、広瀬少佐など閉塞隊推進者は、朝鮮南西端の木浦港に碇泊中の連合艦隊旗艦「三笠」に集まった。彼らは、有馬中佐と共に、司令長官・東郷平八郎中将に、「この際、ぜひ決行させてもらいたい」と進言した。
作戦参謀・秋山少佐は、「賛成しかねる」と発言した。これに対し、先任参謀・有馬中佐は、「絶対不可能という事は無い。私が指揮官となり、作戦を成功させるように実行したい」と述べた。
第二艦隊参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大佐(広島・海兵七次席・海大甲号一・軍務局第一課長・常備艦隊参謀長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・日露戦争・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・ワシントン会議全権・首相・元帥・子爵・正二位・大勲位・功二級)。
第二艦隊先任参謀兼作戦参謀・佐藤鉄太郎(さとう・てつたろう)中佐(山形・海兵一四・五席・海軍大学校教官・巡洋艦「宮古」副長・中佐・装甲巡洋艦「出雲」副長・常備艦隊参謀・第二艦隊参謀・日露戦争・一等戦艦「朝日」副長・砲艦「龍田」副長・海軍大学校選科学生・海軍大学校教官・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・巡洋艦「阿蘇」艦長・海軍大学校教官・海軍大学校教頭・少将・軍令部第四班長兼海軍大学校教官・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・軍令部次長・海軍大学校校長・中将・舞鶴鎮守府司令長官・学習院教授・貴族院議員・正三位・勲一等・功三級)。
ロシア皇帝ニコライ二世は明治三十七年二月九日朝、対日宣戦布告をし、日本は翌二月十日、対露宣戦布告をした。
ロシア太平洋艦隊は、緒戦から、日本海軍に一方的にやられ、主力は旅順に閉じこもっていた。日本海軍の戦略は、ロシア本国から強大なバルチック艦隊が日本に押し寄せてくる前に、旅順とウラジオストックのロシア太平洋艦隊を撃滅し、そのあと、バルチック艦隊を迎え撃つというものだった。
旅順の極東総督・アレクセーエフ海軍大将は、太平洋艦隊司令長官・スタルク海軍中将に対して次のような命令を出していた。
「東郷艦隊との決戦は絶対にするな。艦隊保全を第一とすべし。そして、日本と大陸との補給線を遮断し、朝鮮、満州の日本陸軍を孤立させるべし」。
アレクセーエフ海軍大将の戦略は、次のようなものだった。
「旅順に太平洋艦隊の主力を終結させておき、東郷艦隊を近くに誘って釘付けにする。その隙にウラジオ艦隊を朝鮮海峡に出撃させ、日本の輸送船団を襲撃させる。やがて本国からバルチック艦隊が回航されてくれば、太平洋艦隊はこれと合流し、約半分の兵力の日本艦隊と決戦して、これを撃滅する」。
一方、日本の連合艦隊は、このようなロシア太平洋艦隊を、バルチック艦隊が来る前に撃滅しなければならなかった。だが、旅順のロシア艦隊は、日本の駆逐艦の夜襲でも、戦艦・巡洋艦部隊の砲撃でも撃滅できなかった。
このような状況から、連合艦隊では、狭い旅順港口に、老朽船舶を数隻沈め、観戦の出入りを不可能にする閉塞作戦が考えられた。
だが、この閉塞作戦に対して、連合艦隊作戦参謀・秋山真之少佐は、次のような理由で、反対の立場をとった。
「サーチライト(探照灯)を用いるロシア軍の旅順要塞の砲撃は、夜間でも有効となり、非武装で速度の遅い閉塞船を港口にうまく沈めることは不可能であろう。また、敵の猛射撃で閉塞隊員は全員戦死する可能性がある」。
連合艦隊司令長官・東郷平八郎中将も、部下を死地に投ずることを嫌っていたので、この作戦に不同意であった。
一方、この閉塞作戦に賛成し、自らその指揮官を熱望している先任参謀・有馬良橘中佐は次のように不退転の決意を主張した。
「時期が適切で実行者の決心が固ければ、絶対に不可能という事は無い。また、もしその目的が達成できずに撃沈されるようなことがあっても、一つは我が軍の士気を鼓舞できるし、一つは我が武勇を敵に示して余りあると言える」。
二月十一日、有馬中佐から説明を受け、誘われて、戦艦「日向」水雷長・広瀬武夫(ひろせ・たけお)少佐(大分・小学校教師・海兵一五・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で旅順閉塞作戦に従事・第二回閉塞作戦で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死・中佐)などは閉塞作戦に同意した。
二月十四日、広瀬少佐など閉塞隊推進者は、朝鮮南西端の木浦港に碇泊中の連合艦隊旗艦「三笠」に集まった。彼らは、有馬中佐と共に、司令長官・東郷平八郎中将に、「この際、ぜひ決行させてもらいたい」と進言した。
作戦参謀・秋山少佐は、「賛成しかねる」と発言した。これに対し、先任参謀・有馬中佐は、「絶対不可能という事は無い。私が指揮官となり、作戦を成功させるように実行したい」と述べた。