二人の会談は一時間近く行われた。海軍大臣室のドアが開き、背が高く、ひげもじゃで、いかつい顔の山本海軍大臣と、雄大な八字髭を生やしているが、背が低く目玉がきょろりとした愛嬌のある児玉陸軍参謀次長が大声で笑いながら、「いやあ、今日は愉快じゃ、愉快じゃ」と言いながら出て来た。
山本海軍大臣に会った児玉陸軍参謀次長は、まず自分が参謀次長になったいきさつを淡々と語り、次に、渋沢栄一と、渋沢に次いで財界有力者の日本郵船社長・近藤廉平が、戦費の調達を命がけでやってくれることになったと話した。
山本海軍大臣は膝を乗り出さんばかりにして聞いた。児玉陸軍参謀次長が「もしやると決まりましたら、陸海対等で仲良くやろうじゃないですか」と言った。対ロシア戦争のことである。すると、山本海軍大臣は我が意を得たというように、「やりましょう」と力強く答えた。
児玉陸軍参謀次長が最後に「二、三日中に伊藤侯(この当時は侯爵だった元老の伊藤博文)を訪ね、よく判ってもらえるように話しますよ」と言うと、山本海軍大臣は、深くうなずいた。
当時、元老の伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口県光市・松下村塾塾生・英国留学・奇兵隊の高杉晋作の下で討幕運動・明治維新後は外国事務局判事・初代兵庫県知事・初代工部卿・初代宮内卿・初代総理大臣・初代枢密院議長・総理大臣・貴族院議長・初代韓国統監・ハルピン駅で暗殺される・従一位・大勲位・公爵)は、よく言えば慎重、悪く言えば分らず屋だった。
伊藤は対ロシア戦にまだ首を縦に振らなかったのだ。だが、伊藤も児玉陸軍参謀次長も、ともに長州出身で、話せば分ると、児玉陸軍参謀次長は説得に自信を持っていた。
児玉陸軍参謀次長は、対ロシア戦の最大急務は陸海軍の協合だと考えていた。そして山本海軍大臣が何を知りたがり、何を求めているかも知っていて話し、山本海軍大臣が不満を抱いていた「陸主海従」の慣習を破り、「陸海対等」でやろうと持ちかけたのだ。
児玉陸軍参謀次長と山本海軍大臣は同じく嘉永五年(一八五二)年生まれの五十一歳で、児玉陸軍参謀次長の方が八か月早い生まれだった。
児玉陸軍参謀次長が帰ったあと、山本海軍大臣は、開戦の肝を固め、戦場での最高指揮官である常備艦隊(後の連合艦隊)司令長官を、替えようと決断した。
当時の常備艦隊司令長官は、日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・海兵二・砲術練習所所長・防護巡洋艦「橋立」「松島」艦長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将)だった。
山本海軍大臣は、常備艦隊司令長官を、今の日高中将から、舞鶴鎮守府司令長官・東郷平八郎中将にしようと考えていた。
山本海軍大臣と、日高常備艦隊司令長官は、薩摩(鹿児島)での少年時代からの親友だった。東京築地の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)でも、明治三年十一月に一緒に入学し、何でも腹蔵なく話し合ってきた仲だった。
海軍兵学寮が海軍兵学校と改名されたのは明治九年八月三十一日で、山本海軍大臣と日高常備艦隊司令官は海軍兵学校二期生として卒業した。
だが、日高の方が山本より四歳年上だった。ちなみに、東郷平八郎は山本より五歳、日高より一歳年上だった。
山本海軍大臣は、心情的には、対ロシア開戦は、日高常備艦隊司令長官のままで戦わせてやりたかったが、児玉陸軍参謀次長の私心のない理の通った話を聞いて、自分も私心を捨て、最善を尽くそうと決意した。
山本海軍大臣は、日高中将と東郷中将を次のように見ていた。
「日高中将は、人並み外れて頭が良く、勇気もある。だが、そのために日高中将は自負心が強く、いつも自分を出し過ぎる。こうと思い込むと、人の言う事は全て碌なものではないと頭から決めてかかり、いっさい聞き入れようとしない」
「日露の国交が破れた場合、用兵作戦の大方針は、大本営が決定し、現場の常備艦隊司令長官に示達するが、司令長官はそれに従い、手足のごとく動いてもらわなければいけない」
「ところが日高中将は中央(大本営海軍部)の方針が気に入らないと、自分勝手に了見を立て、中央の命令に従わずに戦をしようとするかもしれない」
「もしそうなって、艦隊が中央の命令と違った行動を取れば、国家は望むような戦争遂行ができなくなり、やがて中央と艦隊は分裂したまま、滅びることになりかねない」
「東郷中将にはそういう不安が少しも無い。いつでも大本営に忠実であろうし、部下たちの意見もよく聞き、臨機応変の処置を取ることができる。参謀に適材をつければ心配ない」。
山本海軍大臣に会った児玉陸軍参謀次長は、まず自分が参謀次長になったいきさつを淡々と語り、次に、渋沢栄一と、渋沢に次いで財界有力者の日本郵船社長・近藤廉平が、戦費の調達を命がけでやってくれることになったと話した。
山本海軍大臣は膝を乗り出さんばかりにして聞いた。児玉陸軍参謀次長が「もしやると決まりましたら、陸海対等で仲良くやろうじゃないですか」と言った。対ロシア戦争のことである。すると、山本海軍大臣は我が意を得たというように、「やりましょう」と力強く答えた。
児玉陸軍参謀次長が最後に「二、三日中に伊藤侯(この当時は侯爵だった元老の伊藤博文)を訪ね、よく判ってもらえるように話しますよ」と言うと、山本海軍大臣は、深くうなずいた。
当時、元老の伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口県光市・松下村塾塾生・英国留学・奇兵隊の高杉晋作の下で討幕運動・明治維新後は外国事務局判事・初代兵庫県知事・初代工部卿・初代宮内卿・初代総理大臣・初代枢密院議長・総理大臣・貴族院議長・初代韓国統監・ハルピン駅で暗殺される・従一位・大勲位・公爵)は、よく言えば慎重、悪く言えば分らず屋だった。
伊藤は対ロシア戦にまだ首を縦に振らなかったのだ。だが、伊藤も児玉陸軍参謀次長も、ともに長州出身で、話せば分ると、児玉陸軍参謀次長は説得に自信を持っていた。
児玉陸軍参謀次長は、対ロシア戦の最大急務は陸海軍の協合だと考えていた。そして山本海軍大臣が何を知りたがり、何を求めているかも知っていて話し、山本海軍大臣が不満を抱いていた「陸主海従」の慣習を破り、「陸海対等」でやろうと持ちかけたのだ。
児玉陸軍参謀次長と山本海軍大臣は同じく嘉永五年(一八五二)年生まれの五十一歳で、児玉陸軍参謀次長の方が八か月早い生まれだった。
児玉陸軍参謀次長が帰ったあと、山本海軍大臣は、開戦の肝を固め、戦場での最高指揮官である常備艦隊(後の連合艦隊)司令長官を、替えようと決断した。
当時の常備艦隊司令長官は、日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・海兵二・砲術練習所所長・防護巡洋艦「橋立」「松島」艦長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将)だった。
山本海軍大臣は、常備艦隊司令長官を、今の日高中将から、舞鶴鎮守府司令長官・東郷平八郎中将にしようと考えていた。
山本海軍大臣と、日高常備艦隊司令長官は、薩摩(鹿児島)での少年時代からの親友だった。東京築地の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)でも、明治三年十一月に一緒に入学し、何でも腹蔵なく話し合ってきた仲だった。
海軍兵学寮が海軍兵学校と改名されたのは明治九年八月三十一日で、山本海軍大臣と日高常備艦隊司令官は海軍兵学校二期生として卒業した。
だが、日高の方が山本より四歳年上だった。ちなみに、東郷平八郎は山本より五歳、日高より一歳年上だった。
山本海軍大臣は、心情的には、対ロシア開戦は、日高常備艦隊司令長官のままで戦わせてやりたかったが、児玉陸軍参謀次長の私心のない理の通った話を聞いて、自分も私心を捨て、最善を尽くそうと決意した。
山本海軍大臣は、日高中将と東郷中将を次のように見ていた。
「日高中将は、人並み外れて頭が良く、勇気もある。だが、そのために日高中将は自負心が強く、いつも自分を出し過ぎる。こうと思い込むと、人の言う事は全て碌なものではないと頭から決めてかかり、いっさい聞き入れようとしない」
「日露の国交が破れた場合、用兵作戦の大方針は、大本営が決定し、現場の常備艦隊司令長官に示達するが、司令長官はそれに従い、手足のごとく動いてもらわなければいけない」
「ところが日高中将は中央(大本営海軍部)の方針が気に入らないと、自分勝手に了見を立て、中央の命令に従わずに戦をしようとするかもしれない」
「もしそうなって、艦隊が中央の命令と違った行動を取れば、国家は望むような戦争遂行ができなくなり、やがて中央と艦隊は分裂したまま、滅びることになりかねない」
「東郷中将にはそういう不安が少しも無い。いつでも大本営に忠実であろうし、部下たちの意見もよく聞き、臨機応変の処置を取ることができる。参謀に適材をつければ心配ない」。