「二葉会」のメンバーは、陸士一五期から一七期までで、次の通り(氏名・陸士期・陸大期・最終階級)。
中心メンバーの永田鉄山(陸士一六・陸大二三次席・中将)、小畑敏四郎(陸士一六・陸大二三恩賜・中将)、岡村寧次(陸士一六・陸大二五・大将)。
そのほか、河本大作(陸士一五・陸大二六・大佐)、山岡重厚(陸士一五・陸大二四・中将)、土肥原賢二(陸士一六・陸大二四・大将)、板垣征四郎(陸士一六・陸大二八・大将)、小笠原数夫(陸士一六・陸大二八・中将)、さらに、磯谷廉介(陸士一六・陸大二七・中将)。
さらに、東條英機(陸士一七・陸大二六・大将)、渡久雄(陸士一七・陸大二五恩賜・中将)、工藤義雄(陸士一七・陸大二七・少将)、松村正員(陸士一七・陸大二八・中将)。
「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」は。バーデン・バーデンでの申し合わせを引き継いだが、その間、まず長州閥の打破に力を注いだ。
永田、小畑、東條、山岡らの陸軍大学校教官時、長州出身者が陸大入学者から徹底して排除された。彼らが陸大教官だった大正十一年から十三年まで、陸大入学者には山口県出身者は全くいない。それまでは毎年平均して三名から五名の山口県出身者が入学していた。
例えば、大正十二年の陸軍大学校の一次試験(筆記)をパスした山口県出身者は合格者一〇〇名中一七名だった。だが、二次試験(口述)では、合格者五〇名中に山口県出身者は全く含まれていない。口述試験で意図的な配点操作がなされたことが考えられる。
ところで、「二葉会」にならって、昭和二年十一月から参謀本部作戦課の鈴木貞一と要塞課の深山亀三郎が中心となり中央の少壮幕僚から組織された「木曜会」が発足した。
「木曜会」は「二葉会」より若い幕僚で構成されていた。「木曜会」のメンバーは、次の通り。
幹事役の鈴木貞一(陸士二二期・陸大二九・中将)のほか、石原莞爾(陸士二一期・陸大三〇次席・中将)、村上啓作(陸士二二期・陸大二八恩賜・中将)、根本博(陸士二三期・陸大三四・中将)、土橋勇逸(陸士二四期・陸大三二・中将)、深山亀三郎(陸士二四期・陸大三二恩賜・中佐)ら十八名。
後に、「木曜会」には、永田鉄山、岡村寧次、東條英機が加わった。そして昭和四年五月には、「二葉会」と「木曜会」は合流して「一夕会」ができた。だが、元の「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、依然継続されていた。
さて、大正十三年八月、永田鉄山中佐は、陸軍大学校兵学教官から、参謀将校の隊附勤務として松本の歩兵第五〇連隊に赴任した。
当時、永田中佐の名は知れ渡っており、第五〇連隊では勿論、地方側でも、県出身の名士を迎えるというので、歓迎準備が進められた。
永田中佐は、特に願い出て、自分の同期生が大隊長である大隊に専属して隊務に精勤した。その隊附当時のある日、永田中佐の所属大隊は行軍を行い、某地に宿営した。
宿営地の村民は大隊の将校一同を招待して、歓迎会を行なった。その席上、同期の大隊長(少佐)は、階級が中佐である、自分より上級者の永田中佐に、上座に着くように勧めた。
すると、永田中佐は、「いや、今日は大隊の長である大隊長が、正座に着くべきだよ」と言って、しきりに勧める大隊長の言を断固としてしりぞけ、上席には着かず、自ら大隊長の次席に座った。
後日の話だが、永田中佐が陸軍省整備局動員課長として、各部隊の動員検査に赴いた際でも、最後に自分の所見を述べる時は、その部隊の隊長に敬意を表して、必ず上座を避けて、位置した、という。
大正十四年二月陸軍省軍事課課員に転補された永田中佐は、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託となり、バーデン・バーデンの密約以来持論であった国家総動員の構築を期すべく、陸軍省内に一局を設置して、これに当たらせることを発案した。
永田中佐は極力これを実現すべく、立案をして、奔走し、その結果、遂に整備局が新設され、動員課、統制課の二課を置くことが決まった。
大正十五年十月一日、永田中佐は初代の陸軍省整備局動員課長となり重任についた。四十二歳であった。
もともと国家総動員の観念及び具体的業務は欧州の第一次世界大戦が生んだもので、永田鉄山の独創的なものではない。
だが、当時雑然として報道された国家総動員関係事項を、日本国の現状に合致するように組織化、体系化したのは、永田中佐だった。
中心メンバーの永田鉄山(陸士一六・陸大二三次席・中将)、小畑敏四郎(陸士一六・陸大二三恩賜・中将)、岡村寧次(陸士一六・陸大二五・大将)。
そのほか、河本大作(陸士一五・陸大二六・大佐)、山岡重厚(陸士一五・陸大二四・中将)、土肥原賢二(陸士一六・陸大二四・大将)、板垣征四郎(陸士一六・陸大二八・大将)、小笠原数夫(陸士一六・陸大二八・中将)、さらに、磯谷廉介(陸士一六・陸大二七・中将)。
さらに、東條英機(陸士一七・陸大二六・大将)、渡久雄(陸士一七・陸大二五恩賜・中将)、工藤義雄(陸士一七・陸大二七・少将)、松村正員(陸士一七・陸大二八・中将)。
「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」は。バーデン・バーデンでの申し合わせを引き継いだが、その間、まず長州閥の打破に力を注いだ。
永田、小畑、東條、山岡らの陸軍大学校教官時、長州出身者が陸大入学者から徹底して排除された。彼らが陸大教官だった大正十一年から十三年まで、陸大入学者には山口県出身者は全くいない。それまでは毎年平均して三名から五名の山口県出身者が入学していた。
例えば、大正十二年の陸軍大学校の一次試験(筆記)をパスした山口県出身者は合格者一〇〇名中一七名だった。だが、二次試験(口述)では、合格者五〇名中に山口県出身者は全く含まれていない。口述試験で意図的な配点操作がなされたことが考えられる。
ところで、「二葉会」にならって、昭和二年十一月から参謀本部作戦課の鈴木貞一と要塞課の深山亀三郎が中心となり中央の少壮幕僚から組織された「木曜会」が発足した。
「木曜会」は「二葉会」より若い幕僚で構成されていた。「木曜会」のメンバーは、次の通り。
幹事役の鈴木貞一(陸士二二期・陸大二九・中将)のほか、石原莞爾(陸士二一期・陸大三〇次席・中将)、村上啓作(陸士二二期・陸大二八恩賜・中将)、根本博(陸士二三期・陸大三四・中将)、土橋勇逸(陸士二四期・陸大三二・中将)、深山亀三郎(陸士二四期・陸大三二恩賜・中佐)ら十八名。
後に、「木曜会」には、永田鉄山、岡村寧次、東條英機が加わった。そして昭和四年五月には、「二葉会」と「木曜会」は合流して「一夕会」ができた。だが、元の「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、依然継続されていた。
さて、大正十三年八月、永田鉄山中佐は、陸軍大学校兵学教官から、参謀将校の隊附勤務として松本の歩兵第五〇連隊に赴任した。
当時、永田中佐の名は知れ渡っており、第五〇連隊では勿論、地方側でも、県出身の名士を迎えるというので、歓迎準備が進められた。
永田中佐は、特に願い出て、自分の同期生が大隊長である大隊に専属して隊務に精勤した。その隊附当時のある日、永田中佐の所属大隊は行軍を行い、某地に宿営した。
宿営地の村民は大隊の将校一同を招待して、歓迎会を行なった。その席上、同期の大隊長(少佐)は、階級が中佐である、自分より上級者の永田中佐に、上座に着くように勧めた。
すると、永田中佐は、「いや、今日は大隊の長である大隊長が、正座に着くべきだよ」と言って、しきりに勧める大隊長の言を断固としてしりぞけ、上席には着かず、自ら大隊長の次席に座った。
後日の話だが、永田中佐が陸軍省整備局動員課長として、各部隊の動員検査に赴いた際でも、最後に自分の所見を述べる時は、その部隊の隊長に敬意を表して、必ず上座を避けて、位置した、という。
大正十四年二月陸軍省軍事課課員に転補された永田中佐は、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託となり、バーデン・バーデンの密約以来持論であった国家総動員の構築を期すべく、陸軍省内に一局を設置して、これに当たらせることを発案した。
永田中佐は極力これを実現すべく、立案をして、奔走し、その結果、遂に整備局が新設され、動員課、統制課の二課を置くことが決まった。
大正十五年十月一日、永田中佐は初代の陸軍省整備局動員課長となり重任についた。四十二歳であった。
もともと国家総動員の観念及び具体的業務は欧州の第一次世界大戦が生んだもので、永田鉄山の独創的なものではない。
だが、当時雑然として報道された国家総動員関係事項を、日本国の現状に合致するように組織化、体系化したのは、永田中佐だった。