陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

511.永田鉄山陸軍中将(11)彼らも諸君と同じ我輩の部下だ。特殊扱いをするには忍びない

2016年01月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和二年三月五日永田鉄山中佐は歩兵大佐に進級した。四十三歳だった。翌年の昭和三年三月八日、麻布の歩兵第三連隊長に補された。将校の卵、士官候補生として初めて勤務した懐かしい母隊だった。

 元来歩兵第三連隊は、その徴募区の関係から、下士官兵は境遇や職務上のために、その統率が容易ではないと定評があった。だが、永田連隊長は、識見と才幹と人格を以って彼ら将兵を統御し連隊を一致団結させるとともに、兵士個々の天分を発揮させ士気を高揚させた。

 また歩三の将校団の気風は一種変わった特色があった。「荒武者」と呼ばれる相当頑固で手に負えない連中がいた。

 永田連隊長はこれらの将校たちの指導に特に意を用い、彼らの議論を傾聴し、どんなことでも一々これに明快なる判決を与え、理非に従って指導矯正すると共に、各々の長所を見出し、これを善用することに務めた。

 これにより、これら荒武者の将校たちも「永田連隊長はものの解った男だ」と敬服するようになり、職務を励むようになり、従順になった。

 さらには「連隊長のためには喜んで命を棄てる」という者まで出て来た。これは永田連隊長が根本のところで、推量豊かな才能と、清濁合わせ飲む腹を持っていたことによる。

 一方、永田連隊長は所命の事項に対する報告、意見具申等について、それがたとえ些細な事柄であっても、常に真剣にこれを傾聴したという。

 よく、太っ腹な部隊長に見られるような、その場限りの、お世辞的な「ヤ~御苦労!御苦労さん!」と、ろくろく報告を吟味しないで、おだてるような返答をすることは決してなかった。

 永田連隊長は部下の報告を謹厳な態度で傾聴し、その報告を仔細に検討した後で、賞すべきはこれを褒め、足らないところは懇切にこれを教示した。

 また、軽微な問題でも、理屈が通らなければ何事も承服しなかった。だから、命じられた者は一生懸命に所命の任務に当たったので、連隊全体的に成績が向上していった。

 一方、宴会等の場合、それが将校集会所で行われるときは、連隊長は将校団長たる存在を明らかにしたが、営外で行われる宴会では、連隊長はどこにいるのか判らぬ位で、部下との融和と、気配りに細心の注意を払った。

 昭和三年九月、連隊新兵舎が落成し、天皇陛下の御臨幸を仰ぐことになった。ところが当時は後備兵の召集期であり、召集者の中には、思想上の要注意人物も多数おり、ことに労働争議のリーダー格の全協系の幹部が十七、八名いた。

 これらの者を果たして、御観閲に参列させるべきかどうかが問題となった。御警備主任はこれらの者を参列させるべきではないと主張した。

 すると永田連隊長は「彼らも陛下の股肱(ここう・手足となって働く者)ではないか」と言った。御警備主任は「しかしながら、万一のことがあったら腹を切る位では済みません」と言って強固に反対した。

 これに対し、永田連隊長は「当連隊の兵として、今千歳一遇のこの光栄に遇う、彼らも諸君と同じ我輩の部下だ。特殊扱いをするには忍びないのだ。よろしく、このたびの光栄に浴せしむべきだ」と静かに説き諭すように言った。

 これにより要注意人物を含め連隊の全将兵に、御検閲の栄を得さしめた。行事は何ら事無く、全将兵は感激に浸ることができた。永田連隊長としては、差別扱いをすることで、彼らの思想の悪化を来すのを防いだ。

 昭和四年五月十九日、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、「二葉会」と「木曜会」が合流して、「一夕会」が発足した。だが、「二葉会」と「木曜会」は消滅したわけではなく、存続はしていた。

 「一夕会」は第一回会合で、陸軍人事の刷新、満州問題の武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将軍の擁立、の三点を取決め、まず陸軍中央の重要ポスト掌握に向けて動いていく。

 歩兵第三連隊長永田鉄山大佐、歩兵第一〇連隊長・小畑敏四郎大佐、陸軍省人事局補任課長・岡村寧次大佐の三人が主導的地位にあり、ともに四十五歳であった。永田大佐がその中心的存在であった。