永田鉄山中将を偲び刊行された「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)では、三月事件について、次のように述べている。
この三月事件の主要計画参加者は次の通り。
【参謀本部】
参謀次長・二宮治重(にのみや・しげはる)中将(岡山・陸士一二・陸大二二恩賜・近衛歩兵第三連隊長・少将・英国大使館附武官・歩兵第二旅団長・参謀本部第二部長・中将・参謀次長・第五師団長・予備役・文部大臣)。
第二部長・建川美次(たてかわ・よしつぐ)少将(新潟・陸士一三・陸大二一恩賜・参謀本部欧米課長・陸軍大学校兵学教官・少将・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーブ軍縮会議陸軍代表・国際連盟陸軍代表・中将・ジュネーブ軍縮会議全権委員・第一〇師団長・第四師団長・予備役・「ソビエト」社会主義共和国連邦在勤特命全権大使・大日本翼賛壮年団長)。
支那課長・重藤千秋(しげとう・ちあき)大佐(福岡・陸士一八・陸大三〇・参謀本部支那課長・歩兵第七六連隊長・第一一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・台湾守備隊司令官・中将)。
陸軍大学校教官・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(福岡・陸士二三・砲工二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部欧米課ロシア班長・砲兵中佐・陸軍大学校兵学教官・野戦重砲兵第二連隊附・砲兵大佐・野戦重砲兵第二連隊長・予備役・野戦重砲兵第一三連隊長・大政翼賛会常任理事・衆議院議員・A級戦犯・終身刑・参議院選挙で落選)。
【陸軍省】
陸軍次官・杉山元(すぎやま・げん)中将(福岡・陸士一二・陸大二二・陸軍省軍務局航空課長・軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国際連盟陸軍代表・軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・第一総軍司令官・自決)。
軍務局長・小磯国昭(こいそ・くにあき)少将(山形・陸士一二・陸大二二・参謀本部編制動員課長・陸軍大学校兵学教官・少将・陸軍航空本部総務部長・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓夢大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯で終身刑・巣鴨拘置所で病死)。
【民間】
大川周明(おおかわ・しゅうめい)博士(山形・東京帝国大学文科大学<印度哲学専攻>卒業・インド独立運動支援・満鉄入社・満鉄東亜経済調査局編輯課長・拓殖大学教授・法学博士・法政大学教授大陸部部長・五一五事件で服役・A級戦犯容疑で起訴されるも精神障害で免訴・松沢病院に入院・退院後農村復興運動に従事)。
以上が主要参加者であるが、この事件に永田鉄山軍事課長は、どのような役割を演じたのか、各種の説に分かれているが、多くの文書によると、永田軍事課長はワキ役であり、小磯軍務局長のクーデターの話を聞いて「こうした非合法手段には反対である」と言って消極的であったと言われている。
小磯軍務局長の「葛山鴻爪」(小磯国昭・小磯国昭自叙伝刊行会・昭和三十九年)によると、三月事件発端の概略と永田軍事課長の関わりは次のように述べられている(要旨抜粋)。
議会混乱、政局混乱の最中、昭和六年二月、大川周明博士が小磯軍務局長の自宅を訪ね、宇垣陸軍大臣への執拗なる面会取次ぎを依頼した。
小磯軍務局長は二月二十六日、大臣室に宇垣陸軍大臣を訪ね「大川博士が大臣に再度面会を希望して聴かないのです。もう一度引見の上、今後面会を受ける必要がないようにされたら如何でしょう」と進言した。
大川博士は政情改善案を宇垣陸軍大臣に提案しようとしていたが、議会襲撃などの過激なものだった。小磯軍務局長は、大臣に面会する前にその案を書面にして提出するよう求めた。参謀本部の二宮次長もそれに同意し、建川第二部長を呼んで協議し、建川第二部長も了承した。
大川博士の提出した宇垣陸軍大臣に宛てた提案書は、半紙二枚に毛筆で自筆したもので、「政変を招来し強力なる政府を樹立する」という事が書かれ、その実行要領が記されていた。
これを読んだ小磯軍務局長は、その内容が、大川博士の従来の大言壮語に比べても、これ程無責任極まるものは無いと考えた。
小磯軍務局長が「こんな簡単な書き物を基礎として仕事ができるとは思われませんね」と言うと、大川博士は「御指示により如何様にも増補修正致します」と答えた。
小磯軍務局長は「これを読んだだけでは何のことか分らない点が多々ありますので、このまま大臣に取り次ぐわけにいかないので、一々質問しますから説明してください」と言って、色々質問し、「私が解ったところだけ、別に原文に添えて大臣に提出します」と告げた。
小磯軍務局長は、翌日陸軍省に登庁し、永田軍事課長を呼んで、大川博士問題の経過を語った。すると永田軍事課長は「そのことは薄々耳にしていましたが、私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っています」と答えた。
この三月事件の主要計画参加者は次の通り。
【参謀本部】
参謀次長・二宮治重(にのみや・しげはる)中将(岡山・陸士一二・陸大二二恩賜・近衛歩兵第三連隊長・少将・英国大使館附武官・歩兵第二旅団長・参謀本部第二部長・中将・参謀次長・第五師団長・予備役・文部大臣)。
第二部長・建川美次(たてかわ・よしつぐ)少将(新潟・陸士一三・陸大二一恩賜・参謀本部欧米課長・陸軍大学校兵学教官・少将・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーブ軍縮会議陸軍代表・国際連盟陸軍代表・中将・ジュネーブ軍縮会議全権委員・第一〇師団長・第四師団長・予備役・「ソビエト」社会主義共和国連邦在勤特命全権大使・大日本翼賛壮年団長)。
支那課長・重藤千秋(しげとう・ちあき)大佐(福岡・陸士一八・陸大三〇・参謀本部支那課長・歩兵第七六連隊長・第一一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・台湾守備隊司令官・中将)。
陸軍大学校教官・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(福岡・陸士二三・砲工二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部欧米課ロシア班長・砲兵中佐・陸軍大学校兵学教官・野戦重砲兵第二連隊附・砲兵大佐・野戦重砲兵第二連隊長・予備役・野戦重砲兵第一三連隊長・大政翼賛会常任理事・衆議院議員・A級戦犯・終身刑・参議院選挙で落選)。
【陸軍省】
陸軍次官・杉山元(すぎやま・げん)中将(福岡・陸士一二・陸大二二・陸軍省軍務局航空課長・軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国際連盟陸軍代表・軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・第一総軍司令官・自決)。
軍務局長・小磯国昭(こいそ・くにあき)少将(山形・陸士一二・陸大二二・参謀本部編制動員課長・陸軍大学校兵学教官・少将・陸軍航空本部総務部長・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓夢大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯で終身刑・巣鴨拘置所で病死)。
【民間】
大川周明(おおかわ・しゅうめい)博士(山形・東京帝国大学文科大学<印度哲学専攻>卒業・インド独立運動支援・満鉄入社・満鉄東亜経済調査局編輯課長・拓殖大学教授・法学博士・法政大学教授大陸部部長・五一五事件で服役・A級戦犯容疑で起訴されるも精神障害で免訴・松沢病院に入院・退院後農村復興運動に従事)。
以上が主要参加者であるが、この事件に永田鉄山軍事課長は、どのような役割を演じたのか、各種の説に分かれているが、多くの文書によると、永田軍事課長はワキ役であり、小磯軍務局長のクーデターの話を聞いて「こうした非合法手段には反対である」と言って消極的であったと言われている。
小磯軍務局長の「葛山鴻爪」(小磯国昭・小磯国昭自叙伝刊行会・昭和三十九年)によると、三月事件発端の概略と永田軍事課長の関わりは次のように述べられている(要旨抜粋)。
議会混乱、政局混乱の最中、昭和六年二月、大川周明博士が小磯軍務局長の自宅を訪ね、宇垣陸軍大臣への執拗なる面会取次ぎを依頼した。
小磯軍務局長は二月二十六日、大臣室に宇垣陸軍大臣を訪ね「大川博士が大臣に再度面会を希望して聴かないのです。もう一度引見の上、今後面会を受ける必要がないようにされたら如何でしょう」と進言した。
大川博士は政情改善案を宇垣陸軍大臣に提案しようとしていたが、議会襲撃などの過激なものだった。小磯軍務局長は、大臣に面会する前にその案を書面にして提出するよう求めた。参謀本部の二宮次長もそれに同意し、建川第二部長を呼んで協議し、建川第二部長も了承した。
大川博士の提出した宇垣陸軍大臣に宛てた提案書は、半紙二枚に毛筆で自筆したもので、「政変を招来し強力なる政府を樹立する」という事が書かれ、その実行要領が記されていた。
これを読んだ小磯軍務局長は、その内容が、大川博士の従来の大言壮語に比べても、これ程無責任極まるものは無いと考えた。
小磯軍務局長が「こんな簡単な書き物を基礎として仕事ができるとは思われませんね」と言うと、大川博士は「御指示により如何様にも増補修正致します」と答えた。
小磯軍務局長は「これを読んだだけでは何のことか分らない点が多々ありますので、このまま大臣に取り次ぐわけにいかないので、一々質問しますから説明してください」と言って、色々質問し、「私が解ったところだけ、別に原文に添えて大臣に提出します」と告げた。
小磯軍務局長は、翌日陸軍省に登庁し、永田軍事課長を呼んで、大川博士問題の経過を語った。すると永田軍事課長は「そのことは薄々耳にしていましたが、私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っています」と答えた。