荒木大将「具体的に言えば永田は一日も現役にとどまっておられないと思えばこそ、抽象的に言ったのである。よろしい、では、陸軍大臣がご希望とあれば申し上げよう」(荒木大将は、永田の三月事件における策謀を述べた)。
真崎大将「これを見てもらいたい」(真崎大将は一握りの書類を持ち出した。当時永田軍事課長が小磯軍務局長に頼まれて作成したクーデタープランだった)。
真崎大将「これは貴官の執筆と思うが、間違いはないか」(末席に控えていた永田軍務局長を呼び寄せて見せた)。
永田軍務局長「その通りであります」。
真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を当時の軍事課長自ら執筆起案しながら時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりも甚だしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。
渡辺教育総監「只今の書類はたしかに穏やかならざることが書いてある。書いた者が永田であることも間違いない。けれども、これは永田個人の作案で、陸軍省として責任を負うべき書類ではないように思うが、その点はいかがなものか」。
真崎大将「普通の書類とは違う非合法なクーデター計画書だ。大臣、次官の決裁印がなくとも実質は立派な公文書である」。
渡辺教育総監「真崎参議官の見解では、公文書、つまり軍の機密文書だとの御意見である。列席の諸官は果たしてどう認められるか」。
荒木大将「念を押すまでもなく、これは立派な軍の機密書類である」。
渡辺教育総監「よろしい。一歩譲って機密公文書と認めよう。それなら、軍の機密文書を一参議官が持っておられるのは、どういう次第であるか。機密文書が外部に漏れたとすれば軍機漏えいである。真崎参議官はどうしてこれを持参されたか、御返答によっては所用の手続きをとらねばならぬ」。
機密文書を勝手に持ち出せば軍法会議ものであった。さすがの真崎大将も巻き返しができず、荒木大将と共に、絶句し、沈黙した。
阿部信行大将が「この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍大臣の手元に返還されては如何なものであるか」と、とりなして、真崎大将も荒木大将もほっとして引き下がった。
この様にして、軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった。だが、これは一応の勝利であった。この後に、さらなる重大なる危機が迫っていたのである。
ところで、真崎甚三郎教育総監罷免の第一は永田鉄山軍務局長であるということが、通説のように伝わっている。だが、永田軍務局長が真崎教育総監罷免の張本人であることを否定するものとして、昭和のフィクサー・矢次一夫(佐賀・統制派の幕僚池田純久と組んで国策研究会同志会を創立・国策研究会として戦時国策の立案に従事・大政翼賛会参与・戦後岸信介首相の顧問)が証言している。
「昭和動乱私史」(矢次一夫・経済往来社)の中で、矢次は次のように記している。
「私もまた、真崎、柳川と共に佐賀県出身でいろいろ関係もあり、この説をおかしいとし、随分調べてみたのだが、その限りでも、永田が真崎を追い出すべく策動した、という確証は一つも見つからぬのである」
「岡村寧次のような荒木、真崎とも親しく、永田とも親友で、斬られたあと葬儀万端の世話をした人や、同じ時代に参謀本部の課長をして永田と交渉の多かった今村均、河辺正三等、及び永田時代のたくさんの後輩軍人たちの話を総合しても、全て否定する人物ばかりであることだ」
「軍務局長という地位と権限には、省部の人事、特に将官人事に対していささかの発言権も、したがって発言力も無く、それに永田は典型的な合理主義者で軍秩序維持主義者であり、だからこうした策動をする人ではないと異口同音している」。
昭和十年七月十九日、軍事参議官会同が開かれてから、四日後の午後のことである。陸軍省軍務局長・永田鉄山少将は、一人の見知らぬ中年将校の訪問を受けた。
中年将校は色が黒く、頬がこけていて頬骨が高く、目はくぼんでいて、口が大きかった。容貌魁偉な男であった。福山の連隊附中佐で、相沢三郎と名乗った。陸軍大臣秘書官・有末清三少佐の紹介だった。
相沢三郎中佐は、宮城県仙台市出身で、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校卒(二二期・卒業成績は歩兵科五〇九名中九十五番)。明治四十三年歩兵少尉任官、歩兵第四連隊附。陸軍戸山学校卒(卒業成績は一〇五名中三番)。大正二年歩兵中尉。
大正七年台湾歩兵第一連隊附。大正九年歩兵大尉、陸軍戸山学校剣道教官。大正十四年陸軍士官学校剣道教官。大正十五年歩兵第一三連隊中隊長。昭和二年歩兵少佐、歩兵第一連隊附、日本体育会体操学校剣道教官(配属将校)。
真崎大将「これを見てもらいたい」(真崎大将は一握りの書類を持ち出した。当時永田軍事課長が小磯軍務局長に頼まれて作成したクーデタープランだった)。
真崎大将「これは貴官の執筆と思うが、間違いはないか」(末席に控えていた永田軍務局長を呼び寄せて見せた)。
永田軍務局長「その通りであります」。
真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を当時の軍事課長自ら執筆起案しながら時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりも甚だしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。
渡辺教育総監「只今の書類はたしかに穏やかならざることが書いてある。書いた者が永田であることも間違いない。けれども、これは永田個人の作案で、陸軍省として責任を負うべき書類ではないように思うが、その点はいかがなものか」。
真崎大将「普通の書類とは違う非合法なクーデター計画書だ。大臣、次官の決裁印がなくとも実質は立派な公文書である」。
渡辺教育総監「真崎参議官の見解では、公文書、つまり軍の機密文書だとの御意見である。列席の諸官は果たしてどう認められるか」。
荒木大将「念を押すまでもなく、これは立派な軍の機密書類である」。
渡辺教育総監「よろしい。一歩譲って機密公文書と認めよう。それなら、軍の機密文書を一参議官が持っておられるのは、どういう次第であるか。機密文書が外部に漏れたとすれば軍機漏えいである。真崎参議官はどうしてこれを持参されたか、御返答によっては所用の手続きをとらねばならぬ」。
機密文書を勝手に持ち出せば軍法会議ものであった。さすがの真崎大将も巻き返しができず、荒木大将と共に、絶句し、沈黙した。
阿部信行大将が「この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍大臣の手元に返還されては如何なものであるか」と、とりなして、真崎大将も荒木大将もほっとして引き下がった。
この様にして、軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった。だが、これは一応の勝利であった。この後に、さらなる重大なる危機が迫っていたのである。
ところで、真崎甚三郎教育総監罷免の第一は永田鉄山軍務局長であるということが、通説のように伝わっている。だが、永田軍務局長が真崎教育総監罷免の張本人であることを否定するものとして、昭和のフィクサー・矢次一夫(佐賀・統制派の幕僚池田純久と組んで国策研究会同志会を創立・国策研究会として戦時国策の立案に従事・大政翼賛会参与・戦後岸信介首相の顧問)が証言している。
「昭和動乱私史」(矢次一夫・経済往来社)の中で、矢次は次のように記している。
「私もまた、真崎、柳川と共に佐賀県出身でいろいろ関係もあり、この説をおかしいとし、随分調べてみたのだが、その限りでも、永田が真崎を追い出すべく策動した、という確証は一つも見つからぬのである」
「岡村寧次のような荒木、真崎とも親しく、永田とも親友で、斬られたあと葬儀万端の世話をした人や、同じ時代に参謀本部の課長をして永田と交渉の多かった今村均、河辺正三等、及び永田時代のたくさんの後輩軍人たちの話を総合しても、全て否定する人物ばかりであることだ」
「軍務局長という地位と権限には、省部の人事、特に将官人事に対していささかの発言権も、したがって発言力も無く、それに永田は典型的な合理主義者で軍秩序維持主義者であり、だからこうした策動をする人ではないと異口同音している」。
昭和十年七月十九日、軍事参議官会同が開かれてから、四日後の午後のことである。陸軍省軍務局長・永田鉄山少将は、一人の見知らぬ中年将校の訪問を受けた。
中年将校は色が黒く、頬がこけていて頬骨が高く、目はくぼんでいて、口が大きかった。容貌魁偉な男であった。福山の連隊附中佐で、相沢三郎と名乗った。陸軍大臣秘書官・有末清三少佐の紹介だった。
相沢三郎中佐は、宮城県仙台市出身で、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校卒(二二期・卒業成績は歩兵科五〇九名中九十五番)。明治四十三年歩兵少尉任官、歩兵第四連隊附。陸軍戸山学校卒(卒業成績は一〇五名中三番)。大正二年歩兵中尉。
大正七年台湾歩兵第一連隊附。大正九年歩兵大尉、陸軍戸山学校剣道教官。大正十四年陸軍士官学校剣道教官。大正十五年歩兵第一三連隊中隊長。昭和二年歩兵少佐、歩兵第一連隊附、日本体育会体操学校剣道教官(配属将校)。