陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

540.永田鉄山陸軍中将(40)石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った

2016年07月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 そして私は「閣下とは今日初めて御会いしたのですが、私は以前から考えていた通り、国体観念の乏しい人だから、軍務局長をお罷めになったらよろしいでしょう」と言うと、これに対しては何も言われませんでした。

 それからしばらく話していると課員が入って来て話が切れましたが、永田閣下は「兎に角今日初めて君に会ったのでゆっくり話す訳には行かぬから、この次の機会に会って話すか、又は手紙で往復して話をしよう」と言われました。

 私は「それでは今度上京した時に御会いします」と言って、最後に「あなたは十一月事件に関係して、而もその責任者として処理するに付いて不届きなやり方じゃないか」と言うと、永田閣下は、カラカラと笑って、「あれは私に関係も責任もない、その様な事をよく言う人があるので、会ってよく話をしている。君もその様に思っているのなら、今度会った時によく話をする」と言われ、午後五時頃別れました。

 以上が、相沢三郎中佐が岡田予審官に話した内容である。

 「片倉参謀の証言・叛乱と鎮圧」(片倉衷・芙蓉書房)によると、昭和十年七月末、当時陸軍省軍務局軍事課満州班に勤務していた片倉衷少佐は、永田軍務局長に「大分閣下を狙っている奴がいますので、護衛を常時つけられたら如何ですか」と言った。

 すると、永田軍務局長は「片倉、人間死ぬときは死ぬ。殺される時はやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。俺は覚悟しているよ」とはっきり答えた。

 昭和十年八月十二日午前九時四十五分頃、軍務局長・永田鉄山少将は、陸軍省の局長室で、机に座り、東京憲兵隊長・新見英夫(にいみ・ひでお)大佐(山口・陸士一九・憲兵大佐・東京憲兵隊長・相沢事件・京都憲兵隊長・予備役)の所管事務報告を受けようとしていた。

 新見大佐の側には、兵務課長・山田長三郎(やまだ・さぶろう)大佐(宮城・陸士二〇・陸大二八・砲兵大佐・野砲兵第二二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・相沢事件・陸軍兵器本廠附・自決)が席についていた。

 山田大佐が隣室の軍事課長・橋本群(はしもと・ぐん)大佐(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・参謀本部動員課長・陸軍省軍務局軍事課長・相沢事件・鎮海湾要塞司令官・少将・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将)呼びに席を立って隣室に行った。

 その瞬間、眼光の鋭い中年将校が、抜身の軍刀を手にして迫って来た。新見大佐は、初めは、その男が何か冗談を仕掛けてきたように思われたので、それで笑おうとした。

 だが、次の瞬間、その中年将校は、永田軍務局長に近づき、「天誅!」と声をあげ、逃げる永田軍務局長の右肩あたりに白刃をサッときらめかせた。袈裟がけに切りつけたのである。

 新見大佐は、阻止するためその中年将校の腰あたりに抱き付いたが、次の瞬間斬られて尻餅を突き意識を失った。

 逃げる永田軍務局長の背後からブスリと軍刀を突き刺し、よろよろ逃げるが、遂に仰向けにバッタリ倒れた永田軍務局長の頭部から頸動脈にかけて、中年将校はもう一太刀打ち下ろした。とどめを刺したのである。永田軍務局長は息絶えた。

 この中年将校は、先月永田軍務局長に面会した、あの相沢三郎中佐だった。相沢中佐は憲兵隊に拘束された。

 軍務局長・永田鉄山少将は、享年五十一歳だった。死後陸軍中将に昇進した。永田鉄山は東條英機より大局を見る眼があり、“カミソリ東條”より、なおよく切れた。

 片倉衷は、永田鉄山と石原莞爾をコンビにして、国軍の刷新強化を図ろうとしていたのだが、石原莞爾は、事務系の人として永田鉄山を余り高く評価しなかった。

 永田鉄山が斬殺された時も、片倉衷に、石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った。そう言われて、片倉衷は面白くなかった。

 戦後、片倉衷は、永田鉄山、石原莞爾の二人が一緒に仕事を始めていれば、支那事変は拡大せず、さらには大東亜戦争も防止し得たのではないか。日本の命運も違ったものになっていただろうと述べている。

 この相沢事件は、翌年の二・二六事件の引き鉄となった。相沢三郎中佐は、昭和十一年五月七日第一師団軍法会議で死刑の判決を受け、七月三日、銃殺刑に処された。

 (今回で「永田鉄山陸軍中将」は終わりです。次回からは「源田実海軍大佐」が始まります)