そもそもこの源田少佐と柴田少佐の論争は、前回の一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会終了後の、帰り道、肩を並べて歩いていた源田少佐と柴田少佐の話題は、おのずと空戦性能の問題になったのだ。
初めのうちは穏やかな話し合いだったが、源田少佐が「空戦性能を強くするには、機体の重量を軽くし、翼面荷重を少しでも小さくすべきだ」と主張した。
すると、柴田少佐が「原則的にはその通りだが、必ずしも翼面荷重だけでは決められない。他の要素も合わせて考える必要がある」と反論した。
二人のやり取りは次第にエスカレートし、感情的になっていった。
源田少佐「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ」。
柴田少佐「何を言うか、ゲン。少しくらい重くたって、俺は勝てるさ」。
当時源田少佐は柴田少佐より十キロほど体重が軽かった。少佐とはいえ、二人ともまだ三十歳を少し過ぎたばかりの血気盛んな年頃だったが、この時の論争が、四月十三日の審議会まで尾を引き、激しい論戦の展開となった。
昭和十三年三月上旬、源田少佐は江田島の海軍兵学校で、中国中部における航空戦の話を全校生徒に対して行った。
海軍兵学校の生徒に対して、航空用兵の講話や海軍軍備のあり方等、多分に高等用兵に属する事項を話しても意味はあまりないし、弊害が伴うことも予想せられるので、源田少佐は前線における航空部隊の将兵が、どんな気持ちで戦闘を遂行しているかを話した。
そして、源田少佐は話の締めくくりとして、次の様に述べた。
「航空隊は、上は司令から下は一整備兵に至るまで、航空作戦の推移が戦局全般を支配する最大要素であるとの信念を持って、任務の遂行に当たっている」
「この思想が全航空部隊に一貫して流れ、かつ徹底していることが、我が海軍航空部隊に赫々(かくかく)たる戦果をもたらせているのである」。
ところが、この話が気に障った、海軍兵学校教頭・角田覚治(かくた・かくじ)大佐(新潟・海兵三九・四十五番・海大二三・砲術学校教官兼水雷学校教官・上海特別陸戦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「木曾」艦長・一等巡洋艦「古鷹」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・海軍兵学校教頭・戦艦「山城」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・佐世保鎮守府参謀長・第三航空戦隊司令官・第四航空戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第一航空艦隊司令長官・テニアン島で戦死)は、全校生徒に向けて次の様に訓示した。
「只今の話は、お前たち生徒の生涯を通じて、血となり肉ともなるものである。しかし、改めて注意しておくが、我々は飛行機がなくても戦闘をやるのである。航空部隊の協力は望ましいけれども、それに頼るわけにはいかないのである」。
当時、この思想は海軍の砲術関係者や水雷関係者等の中に、相当根強くはびこっていた。源田実は戦後次の様に述べている。
「飛行機の協力が単に望ましい程度のもので、制空権なるものが戦闘の勝敗に対し二次的要素を占めるに過ぎないものでしかなかったかどうかは、太平洋戦争の経過が最も雄弁に物語っている」
「角田覚治大佐は、後に第一航空艦隊司令官として、マリアナ列島攻防戦に臨み、遂にテニアンで壮烈な最期を遂げた人である」
「武将としては最も尊敬すべき性格、すなわち、見敵必戦、ネルソン的闘将であった。その最期なども見事なもので、数ある海軍の闘将の中でも、山口多聞中将や、大西瀧治郎中将にも匹敵すべき攻撃精神の持ち主であった」
「これらの人々がもっともっと早く航空が海軍戦略戦術の上に占めうる位置を認識して、軍備の改変に努力していたならば、戦争はもっと変わった経過をたどったであろうことを思うと、惜しまれてならない」。
昭和十五年十月、駐英国日本大使館附武官補佐官の勤務を終えて帰国した源田実少佐は、第一航空艦隊参謀に予定されていた。
「航空作戦参謀・源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、当時、源田少佐は、海軍兵学校一期上の飛行将校・平本道隆中佐(広島・海兵五一・海大三四・第一航空艦隊参謀・大佐・第三南遣艦隊参謀)から「来年度の艦隊では母艦群の統一指揮が重要な研究項目になる」と言われ、分散配備の空母部隊の統一指揮を考えた。
初めのうちは穏やかな話し合いだったが、源田少佐が「空戦性能を強くするには、機体の重量を軽くし、翼面荷重を少しでも小さくすべきだ」と主張した。
すると、柴田少佐が「原則的にはその通りだが、必ずしも翼面荷重だけでは決められない。他の要素も合わせて考える必要がある」と反論した。
二人のやり取りは次第にエスカレートし、感情的になっていった。
源田少佐「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ」。
柴田少佐「何を言うか、ゲン。少しくらい重くたって、俺は勝てるさ」。
当時源田少佐は柴田少佐より十キロほど体重が軽かった。少佐とはいえ、二人ともまだ三十歳を少し過ぎたばかりの血気盛んな年頃だったが、この時の論争が、四月十三日の審議会まで尾を引き、激しい論戦の展開となった。
昭和十三年三月上旬、源田少佐は江田島の海軍兵学校で、中国中部における航空戦の話を全校生徒に対して行った。
海軍兵学校の生徒に対して、航空用兵の講話や海軍軍備のあり方等、多分に高等用兵に属する事項を話しても意味はあまりないし、弊害が伴うことも予想せられるので、源田少佐は前線における航空部隊の将兵が、どんな気持ちで戦闘を遂行しているかを話した。
そして、源田少佐は話の締めくくりとして、次の様に述べた。
「航空隊は、上は司令から下は一整備兵に至るまで、航空作戦の推移が戦局全般を支配する最大要素であるとの信念を持って、任務の遂行に当たっている」
「この思想が全航空部隊に一貫して流れ、かつ徹底していることが、我が海軍航空部隊に赫々(かくかく)たる戦果をもたらせているのである」。
ところが、この話が気に障った、海軍兵学校教頭・角田覚治(かくた・かくじ)大佐(新潟・海兵三九・四十五番・海大二三・砲術学校教官兼水雷学校教官・上海特別陸戦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「木曾」艦長・一等巡洋艦「古鷹」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・海軍兵学校教頭・戦艦「山城」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・佐世保鎮守府参謀長・第三航空戦隊司令官・第四航空戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第一航空艦隊司令長官・テニアン島で戦死)は、全校生徒に向けて次の様に訓示した。
「只今の話は、お前たち生徒の生涯を通じて、血となり肉ともなるものである。しかし、改めて注意しておくが、我々は飛行機がなくても戦闘をやるのである。航空部隊の協力は望ましいけれども、それに頼るわけにはいかないのである」。
当時、この思想は海軍の砲術関係者や水雷関係者等の中に、相当根強くはびこっていた。源田実は戦後次の様に述べている。
「飛行機の協力が単に望ましい程度のもので、制空権なるものが戦闘の勝敗に対し二次的要素を占めるに過ぎないものでしかなかったかどうかは、太平洋戦争の経過が最も雄弁に物語っている」
「角田覚治大佐は、後に第一航空艦隊司令官として、マリアナ列島攻防戦に臨み、遂にテニアンで壮烈な最期を遂げた人である」
「武将としては最も尊敬すべき性格、すなわち、見敵必戦、ネルソン的闘将であった。その最期なども見事なもので、数ある海軍の闘将の中でも、山口多聞中将や、大西瀧治郎中将にも匹敵すべき攻撃精神の持ち主であった」
「これらの人々がもっともっと早く航空が海軍戦略戦術の上に占めうる位置を認識して、軍備の改変に努力していたならば、戦争はもっと変わった経過をたどったであろうことを思うと、惜しまれてならない」。
昭和十五年十月、駐英国日本大使館附武官補佐官の勤務を終えて帰国した源田実少佐は、第一航空艦隊参謀に予定されていた。
「航空作戦参謀・源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、当時、源田少佐は、海軍兵学校一期上の飛行将校・平本道隆中佐(広島・海兵五一・海大三四・第一航空艦隊参謀・大佐・第三南遣艦隊参謀)から「来年度の艦隊では母艦群の統一指揮が重要な研究項目になる」と言われ、分散配備の空母部隊の統一指揮を考えた。