陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

593.桂太郎陸軍大将(13)最新の軍事知識を仕入れてきた自分が、何で彼らの下で働かなければならないのか

2017年08月04日 | 桂太郎陸軍大将
 三好重臣(みよし・しげおみ)大佐(三十四歳・仙台鎮台司令長官)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は陸軍中将。監軍、枢密顧問官。子爵、正二位。

 山田顕義(やまだ・あきよし)少将(三十歳・駐清国特命全権大使)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。司法大臣、枢密顧問官。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。

 堀江芳介(ほりえ・よしすけ)少佐(二十九歳・陸軍教導団教官)は、明治四年陸軍中尉。最終階級は少将。歩兵第六旅団長、衆議院議員、錦鵄間祗侯。従三位、旭日重光章。

 国司順正(くにし・よりまさ)少佐(三十二歳・近衛歩兵第一連隊長)は、明治五年陸軍少佐。最終階級は少将。男爵、正四位、貴族院議員、錦鶏間祗。男爵、正四位。

 品川氏章(しながわ・うじあき)中佐(二十九歳・広島鎮台司令長官御用取扱)は、明治四年陸軍中佐。最終階級は少将。工兵会議議長、歩兵第一〇旅団長。正四位、勲二等。

 福原実(ふくはら・みのる)大佐(三十歳・陸軍省第四局副長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は少将。沖縄県知事、貴族院議員。男爵、正三位、勲一等瑞宝章。

 福原和勝(ふくはら・かずかつ)大佐(二十八歳・陸軍教導団司令長官心得)は、明治六年陸軍大佐。最終階級は大佐(戦死)。初代在清国公使館附武官、第三旅団参謀長。

 以上のように、明治七年当時、桂太郎と同郷の長州藩出身者で、ほぼ同世代である有為な軍人たちは、すでに一様に出世していたのである。

 この様な状況であるから、陸軍卿・山縣有朋中将は、桂太郎に、「大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」と言ったのである。

 だが、この説得に対する、桂の返答は、次の様なものであった。

 「陸軍卿の言われるところは、自分の最も望むところです。秩序を軍隊に立てることは、自分が兵制を研究し、将来我が国の陸軍のため尽くさんとする主たる目的でした。むしろ自分を少尉に任ぜられた方が、かえって陸軍のためによいのではありませんか。その方が自分の目的と合致するのです。しかし、いったん任命があった以上は是非もありませんが、初任を大尉以上とすることはよろしくないと思います」。

 この桂の返答は、意外なものであり、山縣中将を喜ばせ、大いに感心させた。さだめし不平を言うだろうと思っていたのに、この言、桂の見どころの尋常でないと、山縣中将は見てとった。

 これ以降、初任として大尉になった者は、跡を絶つに至り、将校初任の方針が、ここに確立することになったのである。

 だが、「桂太郎―予が生命は政治である」(小林道彦・ミネルヴァ書房・平成18年)によると、次のように記してある。

 桂太郎は、自らの人事に恬淡としていたことになっているが、杉山茂丸によれば、実は内心ははなはだ面白くなかった。

 洋行前の同僚が遥か上官にいて「肩で風を切って」いるのに対して、賞典禄はもとより、県庁から借金までして私費留学をおこない、最新の軍事知識を仕入れてきた自分が、何で彼らの下で働かなければならないのか。桂はそんな不満をおくびにもださなかった(杉山茂丸『桂太郎伝』二二一~二二五頁)。

 杉山茂丸(すぎやま・しげまる)は、福岡県出身。福岡藩士・杉山三郎平の長男。日本の政治運動家、実業家。山縣有朋、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅らの参謀役を務め、「政界の黒幕」などと呼ばれた。

 さて、山縣と桂が意気投合するようになった第一歩には、次の様なこともあった。任官の日に桂が、山縣と会ったとき、その日の話題に徴兵令発布の問題が上がった。

 山縣は内心相当の自信と覚悟とをもって徴兵令を出したのだが、それに賛成する者はほとんどなかったのである。

 ところが、桂は、ドイツを見てきた頭で、プロイセン軍制の認識から、陸軍の将来にとって徴兵令の制定は大きな意味を持つと、徴兵令の発布を喜ぶ旨を語った。

 これに山縣は意を強くした。山縣は、徴兵令を陸軍の基礎となるものと評価したのは桂ただ一人であると、喜んだ。山縣と桂の意気投合は、この日から始まった。

 桂は、同年の明治七年六月十日には、早くも少佐に昇進して、参謀局諜報提理に就任し、志願兵徴募を担当した。

 徴兵令施行後の期間が短く、徴兵だけでは不十分で、窮余の策として、志願兵徴募が行われた。徴兵制度を否定するような政策で難しい仕事だが、陸軍卿・山縣中将が、徴兵制を全面的に支持した桂への強い信頼によるものだった。