陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

594.桂太郎陸軍大将(14)西郷と大山の了解を取り付けた上で、桂少佐は山縣に提案した

2017年08月11日 | 桂太郎陸軍大将
 明治七年二月、第六局が廃止され、参謀局が独立し、六月、参謀局条例が発令された。参謀局は、作戦計画や戦略を独自に立案し、戦時には、作戦を指示、実行し戦略を統括する。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、参謀局の組織は局長に将官を任じ、参謀局の幕僚参謀官と各鎮台の幕僚参謀官を統括する。

 この参謀局の組織には、桂太郎大尉がドイツ留学中に修得したドイツ参謀本部の事例が参照して作られたと考えられる。

 さらに、もう一つ、桂少佐の提案により、公使館附武官の制度が創始され、公使館附武官が各国に派遣されることになった。

 桂少佐自身、ドイツに再び行き、軍制の研究に再び従事したい願望が、抑えがたいものになっていた。そんな時、台湾出兵の善後処理のため、清国との外交交渉が難航し断絶まで覚悟した事例をあげて、相手国の軍事状況を十分に認識していなければならないと主張した。

 それには、早急にヨーロッパの軍制や軍事事情を研究するために、一定のキャリアを持つ軍人を派遣する必要があるとして、公使館附武官の制度を提案したのである。

 さらに、桂少佐は、明治七年十二月末に台湾出兵から凱旋した西郷従道(さいごう・つぐみち)陸軍中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)にこの提案をまず話した。
 
 次に、大山巌(おおやま・いわお)陸軍少輔(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍大佐<二十八歳>・少将<二十八歳>・渡欧・普仏戦争等視察・陸軍少輔・第一局長・陸軍少将<三十二歳>・東京鎮台司令官・第一旅団司令官・攻城砲司令官・西南戦争鎮圧・中将<三十六歳>・参謀本部次長兼陸軍士官学校校長・陸軍卿・兼参謀本部長・伯爵・陸軍大臣<四十三歳>・兼海軍大臣・兼監軍・大将<四十九歳>・枢密顧問官・陸軍大臣・日清戦争で第二軍司令官・陸軍大臣・侯爵・陸軍大臣・元帥<五十六歳>・参謀総長・旭日桐花大綬章・日露戦争で満州軍総司令官・内大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア・イギリス帝国メリット勲章・ロシア帝国白鷲大綬章等)に説明した。

 そのあと、桂少佐は、山縣有朋陸軍卿に建策して、同意を得た。薩派の陸軍省内の実力者、西郷と大山の了解を取り付けた上で、桂少佐は山縣に提案した。その手法は、桂少佐らしい根回しのやり方だった。

 しかも、翌明治八年三月三十日には、ドイツ公使館附武官に桂少佐が任命されたのは、素早い決定だった。これは桂少佐が、自薦してその志を達したのである。

 そして、四月二十八日付で、山縣陸軍卿は桂少佐に宛てた懇切な在外武官服務を論達したが、これは異例の措置だった。その諭達の内容は次の通り。

 「参謀科の将校を派遣するが、その立場は公使館の一員であるとともに武官としての廉潔節操を重んじ、陸軍の名誉を汚してはならない」

 「さらにその任務としては、当該国の兵制、軍法、軍事地理などの調査・研究をはじめ、その国をめぐる対外関係や利害関係の有無に至るまで調査すること」。

 この諭達を受けた桂少佐は、ドイツ公使館附武官として軍事行政の研究を最重要課題とし、その研究が終わるまでは帰朝を命じられないようにと、山縣陸軍卿に要望した上で、六月に出発した。

 桂少佐を迎えた駐独日本公使は長州藩の先輩でもあり、前回のドイツ留学中にも世話になった青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)だった。

 なお、当時留学生として、先輩の品川弥二郎(しながわ・やじろう・山口・禁門の変・戊辰戦争・奥羽鎮撫総督参謀<十九歳>・維新後渡欧・普仏戦争視察<二十一歳>・内務少輔・農商務大輔・駐独公使・宮内省御料局長・枢密顧問官・子爵<三十五歳>・内務大臣<四十二歳>・政治団体国民協会を組織・獨逸学協会学校(現・獨協学園)創立・旧制京華中学校(現・京華学園)創立・子爵・勲一等旭日大綬章)も滞在していた。

 また、山縣陸軍卿の養嗣子、山縣伊三郎(やまがた・いさぶろう・山口・勝津兼亮と山縣有朋の姉の間に生まれた次男・山縣有朋の養子・ドイツ留学・内務官僚・三重県知事<四十一歳>・地方局長・内務次官・逓信大臣<四十八歳>・貴族院議員・韓国副統監<五十二歳>・朝鮮総督府政務総監・文官朝鮮総督・枢密顧問官<六十四歳>・山縣家の分家として山縣男爵家を建てる・山縣公爵を継ぎ公爵・正二位・旭日桐花大綬章・大韓帝国瑞星大勲章・フランス共和国ドラゴンドランナン勲章グランクロワ等)が在留していた。

 さらに、後に山縣有朋のブレーンとなる、平田東助(ひらた・とうすけ・山形・藩校「興譲館」<現・山形県立米沢興譲館高等学校>・戊辰戦争・維新後慶應義塾<現・慶應義塾大学>入学・大学南高<現・東京大学>入校・岩倉使節団随行<二十二歳>・ドイツ留学・ベルリン大学<政治学>・ハイデルベルク大学<国際法・博士>・ライプツィヒ大学<商法>・内務省御用係<二十七歳>・大蔵省翻訳課長・少書記官・法制局専務・伊藤博文憲法調査団随伴<三十三歳>・貴族院議員<四十一歳>・兼枢密院書記官長・法制局長官<四十九歳>・錦鶏間祗侯<きんけいのましこう>・農商務大臣<五十二歳>・内務大臣・子爵・臨時外交調査会委員・臨時教育会議総裁・内大臣<七十三歳>・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)も在留していた。

 これらの人物は、後の桂太郎が長州派の藩閥政治家の嫡流として登場する上で、貴重な出会いとなったのである。