これは、板垣退助に連なる土佐派と言われる自由党グループが、民党側から離脱して、政府と妥協が実現したのだ。
三崎亀之助代議士は、土佐派と同調して、山縣内閣の予算案成立に協力したことで、自由党を脱党した(その後、復党)。
ところが、その削減額の中で、陸軍省所管の削減額は、当初の予算査定では七〇万円だったのが、最終的に三〇万円に過ぎなかったのである。これには、桂太郎中将の政治対策が功を奏した。
桂中将は、前述したように、議員の理解を求めるため、各派各党と交渉した。特に衆議院では、自由党、改進党、大成党などの所属の予算委員を各個に自邸に招いて、懇切丁寧に、根気よく予算の説明をした。
その論法は、たんに予算内容の技術的なことばかりではなく、陸軍創設以来の歴史を説き、軍政改革の沿革、軍備充実の目的など、大局からも説得するという手法だった。
あくまでも熱意と懇切を以て議員に理解を得ようとすることに全力を挙げた。話し合いによって理解を勝ち得るというやり方は、桂中将の得意とする戦法だったのである。
三〇万円の削減で済んだ陸軍予算の成立における陸軍次官兼軍務局長・桂太郎中将の手腕は、陸軍部内だけでなく、政治家、官僚にも認められ、注目されるところとなった。
山縣内閣は、明治二十四年度予算修正案を通過させたが、法案は、六件だけしか可決しなかった。さすがに山縣有朋首相の自信も揺らぎ始めた。
薩長藩閥内閣と位置付けられた、山縣内閣は、自由党、立憲改進党などの野党から、藩閥政治であると批判、抵抗されたのだ。
こうして明治二十四年四月、第一次山縣内閣は総辞職した。
山縣有朋のあとの首相は、松方正義(まつかた・まさよし・鹿児島・薩摩藩御軍艦掛<三十一歳>・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞<三十五歳>・大蔵省官僚・内務卿<四十五歳>・フランス視察・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣<五十歳>・総理大臣<五十六歳>・日露戦争準備のため米国欧州を訪問・日本赤十字社社長・枢密顧問官・内大臣・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロスなど)だった。第一次松方内閣である。
大山巌陸軍大臣が辞任したあとの陸軍大臣には、高島鞆之助(たかしま・とものすけ)中将(鹿児島・薩摩藩士・戊辰戦争・維新後侍従<二十七歳>・侍従番長・陸軍大佐<三十歳>・第一局副長・教導団長・長崎警備隊指揮官・少将<三十三歳>・別働第一旅団司令長官・フランス・ドイツ出張・熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・中将<三十九歳>・西部監軍部長・子爵・大阪鎮台司令官・第四師団長<四十四歳>・陸軍大臣<四十七歳>・枢密顧問官・台湾副総統・拓殖務大臣・陸軍大臣・予備役・枢密顧問官・子爵・正二位・旭日桐花大綬章・レジオンドヌール勲章コマンドゥール)が就任した。
桂太郎中将は山縣有朋大将と共に辞任すると表明した。桂中将自身は部隊指揮官を望んでいたと言われている。
当時桂中将は、陸軍内において大きな権限と発言力をもっていたが、その軍歴は在外公使館勤務のほかは、参謀本部や陸軍省に身を置いて、陸軍中将まで昇進した。
将兵を指揮、統率するという軍務を経験していないことは、軍人としては異例の経歴だった。桂中将自身もこのことを意識しており、軍指揮官としてもその能力を発揮しなければならないと、師団長の職を希望したのだ。
だが、陸軍部内では、「桂中将は、大山陸相の後任の陸軍大臣に就任できると思っていたが、自分より三歳年長の高島中将が陸軍大臣の椅子を奪ったので次官を辞めたのだろう」との流言が飛んだ。
薩摩の豪放的な高島中将と緻密な桂中将は、性格的にも合わなかった。「高島中将も、桂中将を遠ざけたいと思っていたので、名古屋の第三師団長へ追いやったのだ。つまりこの人事は左遷だ」との噂も流れた。
だが、「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂中将は第三師団長転出について、次の様に記している。
「世人或は高島子が陸軍大臣となりしを以て、我が辞職したるなりとか、或は我と高島子との間に行違ひありしなど伝説するものありしかども、其事実全く然らず」
「素より当時の順序としては、高島子が大山伯の後を襲うことは適当にして、又已(やむ)を得ざりし事ならんと思はる。此事も世の伝説の事実を誤るを懼れ特に玆(ここ)に記す」。
三崎亀之助代議士は、土佐派と同調して、山縣内閣の予算案成立に協力したことで、自由党を脱党した(その後、復党)。
ところが、その削減額の中で、陸軍省所管の削減額は、当初の予算査定では七〇万円だったのが、最終的に三〇万円に過ぎなかったのである。これには、桂太郎中将の政治対策が功を奏した。
桂中将は、前述したように、議員の理解を求めるため、各派各党と交渉した。特に衆議院では、自由党、改進党、大成党などの所属の予算委員を各個に自邸に招いて、懇切丁寧に、根気よく予算の説明をした。
その論法は、たんに予算内容の技術的なことばかりではなく、陸軍創設以来の歴史を説き、軍政改革の沿革、軍備充実の目的など、大局からも説得するという手法だった。
あくまでも熱意と懇切を以て議員に理解を得ようとすることに全力を挙げた。話し合いによって理解を勝ち得るというやり方は、桂中将の得意とする戦法だったのである。
三〇万円の削減で済んだ陸軍予算の成立における陸軍次官兼軍務局長・桂太郎中将の手腕は、陸軍部内だけでなく、政治家、官僚にも認められ、注目されるところとなった。
山縣内閣は、明治二十四年度予算修正案を通過させたが、法案は、六件だけしか可決しなかった。さすがに山縣有朋首相の自信も揺らぎ始めた。
薩長藩閥内閣と位置付けられた、山縣内閣は、自由党、立憲改進党などの野党から、藩閥政治であると批判、抵抗されたのだ。
こうして明治二十四年四月、第一次山縣内閣は総辞職した。
山縣有朋のあとの首相は、松方正義(まつかた・まさよし・鹿児島・薩摩藩御軍艦掛<三十一歳>・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞<三十五歳>・大蔵省官僚・内務卿<四十五歳>・フランス視察・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣<五十歳>・総理大臣<五十六歳>・日露戦争準備のため米国欧州を訪問・日本赤十字社社長・枢密顧問官・内大臣・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロスなど)だった。第一次松方内閣である。
大山巌陸軍大臣が辞任したあとの陸軍大臣には、高島鞆之助(たかしま・とものすけ)中将(鹿児島・薩摩藩士・戊辰戦争・維新後侍従<二十七歳>・侍従番長・陸軍大佐<三十歳>・第一局副長・教導団長・長崎警備隊指揮官・少将<三十三歳>・別働第一旅団司令長官・フランス・ドイツ出張・熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・中将<三十九歳>・西部監軍部長・子爵・大阪鎮台司令官・第四師団長<四十四歳>・陸軍大臣<四十七歳>・枢密顧問官・台湾副総統・拓殖務大臣・陸軍大臣・予備役・枢密顧問官・子爵・正二位・旭日桐花大綬章・レジオンドヌール勲章コマンドゥール)が就任した。
桂太郎中将は山縣有朋大将と共に辞任すると表明した。桂中将自身は部隊指揮官を望んでいたと言われている。
当時桂中将は、陸軍内において大きな権限と発言力をもっていたが、その軍歴は在外公使館勤務のほかは、参謀本部や陸軍省に身を置いて、陸軍中将まで昇進した。
将兵を指揮、統率するという軍務を経験していないことは、軍人としては異例の経歴だった。桂中将自身もこのことを意識しており、軍指揮官としてもその能力を発揮しなければならないと、師団長の職を希望したのだ。
だが、陸軍部内では、「桂中将は、大山陸相の後任の陸軍大臣に就任できると思っていたが、自分より三歳年長の高島中将が陸軍大臣の椅子を奪ったので次官を辞めたのだろう」との流言が飛んだ。
薩摩の豪放的な高島中将と緻密な桂中将は、性格的にも合わなかった。「高島中将も、桂中将を遠ざけたいと思っていたので、名古屋の第三師団長へ追いやったのだ。つまりこの人事は左遷だ」との噂も流れた。
だが、「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂中将は第三師団長転出について、次の様に記している。
「世人或は高島子が陸軍大臣となりしを以て、我が辞職したるなりとか、或は我と高島子との間に行違ひありしなど伝説するものありしかども、其事実全く然らず」
「素より当時の順序としては、高島子が大山伯の後を襲うことは適当にして、又已(やむ)を得ざりし事ならんと思はる。此事も世の伝説の事実を誤るを懼れ特に玆(ここ)に記す」。