七月二十三日午前二時、日本軍(混成第九旅団)は大院君を護衛して、漢城に向かい、王宮を攻撃、守備隊の抵抗を排除して、王宮内に入り、国王高宗を確保し、親日政権(大院君による第三次政権)を樹立した。
七月二十五日、大院君は、清国と朝鮮間の伝統的な宗属関係の破棄を宣告した。さらに、牙山に駐留する清国軍の撤退要求を日本大使に伝えた。
当時の日本大使は大鳥圭介(おおとり・けいすけ・兵庫・幕府伝習隊歩兵隊長・幕府陸軍歩兵奉行(将官級)・五稜郭で官軍に降伏・維新後特赦で出獄・新政府大蔵小丞<三十九歳>・欧米各国歴訪・陸軍大佐<四十一歳>・工部省工作局長・工部大学校校長<四十四歳>・工部技監・東京学士院会員・元老院議員・学習院長兼華族所学校校長・駐清国特命全権公使<五十六歳>・朝鮮公使・枢密顧問官・男爵・正二位・旭日大綬章)だった。
大鳥大使は、大院君に朝鮮の近代化を建言したりして、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉にあたった。朝鮮の反日派から射撃されたりした。
明治二十七年七月二十五日に豊島沖海戦があり、二十九日には成歓の戦いが行われた後、八月一日、日本と清国は宣戦布告をした。日清戦争の勃発である。
第三師団長・桂太郎中将は、日清開戦になることを予想して、第三師団の派遣を希望し、期待して待っていた。
八月四日第三師団に対して充員命令が下った。充員命令とは、動員にあたり、各部隊の要員を充足するために、在郷軍人を招集せよという命令。
この時、桂太郎中将は、郷土の先輩、枢密顧問官・野村靖(のむら・やすし・山口・松下村塾・第二次長州征討・維新後岩倉具視使節団として渡欧<二十九歳>・神奈川県権令・県令・駅逓総監・逓信次官・子爵<四十五歳>・枢密顧問官・駐仏公使・内務大臣<五十二歳>・逓信大臣・皇室養育掛長・子爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)宛ての書で、次の様に述べている。
「陳者四日当師団充員の命令を拝受し爾来日夜準備仕居申候、完整の上は定めしどの方面にか進発仕るべき事と其命令を待居申候……一師団の強卒にて方面に当たる武官の名誉此上なく候」。
この文では、ようやく出動準備の命令がくだったことに、桂中将が期待をふくらませていることが伺える。また、その興奮する心境も吐露している。
また、以前、桂中将が総務局長の時、その下で課長だった郷土の後輩、第四師団参謀長・真鍋斌(まなべ・たけし)大佐(山口・陸軍生年学舎・陸軍少尉<二十一歳>・陸軍省第一局第三課・西南戦争・総務局武学課長・総務局第三課長・歩兵第三連隊長・大佐<四十歳>・軍務局第一軍事課長・第四師団参謀長・陸軍省人事課長・少将<四十六歳>・歩兵第九旅団長・留守第五師団長・中将<五十四歳>・予備役・男爵・貴族院議員・陸軍参政官・男爵・正三位・勲一等旭日大綬章・功二級)に宛てた手紙で次のように記している。
「生に取りては、此度の任務、実に名誉の至なり。如何となれば、参謀本部在勤中は、殊に此方面に関する軍機に参与し、今自ら其の実行の先頭に立たんとす」。
これは、桂中将が参謀本部時代に、自ら清国に対する作戦の策定にあたったことを思い出しながら、その作戦を実行する立場になったことを名誉に思っているという文である。
だが、第三師団への出動命令はなく、師団からは騎兵一個小隊、山砲、工兵の各一個大隊が引き抜かれて、元山に向かって出発し、第五師団の指揮下に入った。
師団として出動を願っていた桂中将は、焦燥にかられて、八月十六日、参謀次長・川上操六中将に宛てて、第三師団の準備はすでに整っていることを伝え、「何卒、速やかに出発の命令これあり候被致度候」と、催促がましい手紙を出した。
直ぐに応答はなく、しばらく経ってから川上中将から、大磯で会見したいとの書が桂中将に届き、桂中将と川上中将の会談が行われた。
だが、その間の八月二十六日に、第三師団への出動命令が届いた。桂中将の強引な工作が功を奏し、他の師団を出し抜いたのだ。先発の第五師団に次いで、第三師団が出動することになった。
九月一日、第三師団は、第五師団とともに、軍司令官・山縣有朋大将が指揮する第一軍の主力として編成され、名古屋を出発した。
第三師団は九月八日に広島の宇品港から乗船し、十二日に朝鮮の仁川(じんせん)に上陸、十三日に京城(けいじょう=ソウル)に到着した。
七月二十五日、大院君は、清国と朝鮮間の伝統的な宗属関係の破棄を宣告した。さらに、牙山に駐留する清国軍の撤退要求を日本大使に伝えた。
当時の日本大使は大鳥圭介(おおとり・けいすけ・兵庫・幕府伝習隊歩兵隊長・幕府陸軍歩兵奉行(将官級)・五稜郭で官軍に降伏・維新後特赦で出獄・新政府大蔵小丞<三十九歳>・欧米各国歴訪・陸軍大佐<四十一歳>・工部省工作局長・工部大学校校長<四十四歳>・工部技監・東京学士院会員・元老院議員・学習院長兼華族所学校校長・駐清国特命全権公使<五十六歳>・朝鮮公使・枢密顧問官・男爵・正二位・旭日大綬章)だった。
大鳥大使は、大院君に朝鮮の近代化を建言したりして、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉にあたった。朝鮮の反日派から射撃されたりした。
明治二十七年七月二十五日に豊島沖海戦があり、二十九日には成歓の戦いが行われた後、八月一日、日本と清国は宣戦布告をした。日清戦争の勃発である。
第三師団長・桂太郎中将は、日清開戦になることを予想して、第三師団の派遣を希望し、期待して待っていた。
八月四日第三師団に対して充員命令が下った。充員命令とは、動員にあたり、各部隊の要員を充足するために、在郷軍人を招集せよという命令。
この時、桂太郎中将は、郷土の先輩、枢密顧問官・野村靖(のむら・やすし・山口・松下村塾・第二次長州征討・維新後岩倉具視使節団として渡欧<二十九歳>・神奈川県権令・県令・駅逓総監・逓信次官・子爵<四十五歳>・枢密顧問官・駐仏公使・内務大臣<五十二歳>・逓信大臣・皇室養育掛長・子爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)宛ての書で、次の様に述べている。
「陳者四日当師団充員の命令を拝受し爾来日夜準備仕居申候、完整の上は定めしどの方面にか進発仕るべき事と其命令を待居申候……一師団の強卒にて方面に当たる武官の名誉此上なく候」。
この文では、ようやく出動準備の命令がくだったことに、桂中将が期待をふくらませていることが伺える。また、その興奮する心境も吐露している。
また、以前、桂中将が総務局長の時、その下で課長だった郷土の後輩、第四師団参謀長・真鍋斌(まなべ・たけし)大佐(山口・陸軍生年学舎・陸軍少尉<二十一歳>・陸軍省第一局第三課・西南戦争・総務局武学課長・総務局第三課長・歩兵第三連隊長・大佐<四十歳>・軍務局第一軍事課長・第四師団参謀長・陸軍省人事課長・少将<四十六歳>・歩兵第九旅団長・留守第五師団長・中将<五十四歳>・予備役・男爵・貴族院議員・陸軍参政官・男爵・正三位・勲一等旭日大綬章・功二級)に宛てた手紙で次のように記している。
「生に取りては、此度の任務、実に名誉の至なり。如何となれば、参謀本部在勤中は、殊に此方面に関する軍機に参与し、今自ら其の実行の先頭に立たんとす」。
これは、桂中将が参謀本部時代に、自ら清国に対する作戦の策定にあたったことを思い出しながら、その作戦を実行する立場になったことを名誉に思っているという文である。
だが、第三師団への出動命令はなく、師団からは騎兵一個小隊、山砲、工兵の各一個大隊が引き抜かれて、元山に向かって出発し、第五師団の指揮下に入った。
師団として出動を願っていた桂中将は、焦燥にかられて、八月十六日、参謀次長・川上操六中将に宛てて、第三師団の準備はすでに整っていることを伝え、「何卒、速やかに出発の命令これあり候被致度候」と、催促がましい手紙を出した。
直ぐに応答はなく、しばらく経ってから川上中将から、大磯で会見したいとの書が桂中将に届き、桂中将と川上中将の会談が行われた。
だが、その間の八月二十六日に、第三師団への出動命令が届いた。桂中将の強引な工作が功を奏し、他の師団を出し抜いたのだ。先発の第五師団に次いで、第三師団が出動することになった。
九月一日、第三師団は、第五師団とともに、軍司令官・山縣有朋大将が指揮する第一軍の主力として編成され、名古屋を出発した。
第三師団は九月八日に広島の宇品港から乗船し、十二日に朝鮮の仁川(じんせん)に上陸、十三日に京城(けいじょう=ソウル)に到着した。