明治二十四年六月一日、桂太郎中将は、第三師団長の辞令を受けた。桂中将は陸軍次官兼軍務局長を辞任して第三師団長(名古屋)に転任することになった。
その次の陸軍次官兼軍務局長に就任したのは、岡沢精(おかざわ・くわし)少将(山口・戊辰戦争・維新後陸軍大阪第二教導隊・四等軍曹<二十七歳>・御親兵大隊長・准中尉<二十七歳>・大尉<二十七歳>・少佐<二十七歳>・御親兵五番大隊長・近衛歩兵第一連隊大隊長・別働第一旅団参謀長・東京鎮台参謀長・大佐<三十六歳>・西部監軍部参謀・近衛参謀長・少将<四十一歳>・歩兵第八旅団長・陸軍次官兼軍務局長・将校学校監・監軍部参謀長・大本営軍事内局長兼侍従武官・中将<五十一歳>・男爵・侍従武官長・大将<六十歳>・侍従武官長・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級)だった。
第三師団長転任の辞令を受けた後、桂太郎中将は、六月五日には名古屋の師団司令部に到着し、直ちに命課布達式を行った。そして九日には師団長として、初訓示を行なった。
この素早い着任は、桂中将として考えのあってのことだった。師団長が新たに任命された時は、一週間以内に着任し、職務に就かねばならない規定があった。
だが、当時、規定より二、三倍も長い日数をかけて、ようやく赴任する師団長も多々見られたのである。病気であるとか、事故であるというような理由をつけていた。
師団長たるもの、これでは、あまりにだらしないと、桂中将は思っていたのだ。師団長として多数の将兵の上に立つ者が、規則を破るようでは、どうして部下の指導ができようかと。
七月中旬以降、第三師団長・桂太郎中将は、第三師団管下の、愛知・静岡・三重・岐阜・福井・石川・富山の七県に展開する各衛戍地の軍隊を検閲した。
桂中将が着任した、その年の十月二十八日、濃尾(のうび)地震が発生した。震度七(マグニチュード八・四)という大地震で、岐阜県、愛知県にまたがる濃尾平野を中心に甚大な被害が出た。死者七〇〇〇人以上、負傷者一七〇〇〇人以上、家屋全壊一四〇〇〇〇戸以上、半壊八〇〇〇〇戸以上という大被害だった。
名古屋市も被害が多く、死者一八七名、負傷者二七七名、家屋全壊一〇五二戸、半壊一〇九七戸だった。
名古屋城内にあった第三師団司令部も、頑丈な建物であったが、半壊して、司令部として使うことができないほどだった。
第三師団長・桂太郎中将は、この前例を見ない驚くべき大地震に対して、第三師団長としてどう対処するべきか、熟考した。
師団条例の規定によると、地方の擾乱(じょうらん=騒乱)、もしくは事変のあった時、師団長は地方官の要請によって、はじめて兵を出すことができる、となっていた。
だが、桂中将は考えた。地方鎮護のために常設せられている軍隊は、このような災害が起きた時に、臨機の処置をとることは当然ではないだろうか。
それは師団長の決心いかんによって決めてよいだろう。全て師団長の責任でやれば良い。条例どうり、地方官の要求を待って、行動したのでは間に合わない。
桂中将は、旅団(約五〇〇〇名)の出動命令を下し、地震災害の市民保護、人命救助、火災消火の任務を与えた。衛生隊も組織して派遣した。
軍隊の派遣について、桂中将は、十月三十日に具体的な報告を陸軍大臣・高島鞆之助中将に、提出した。
さらに救助活動が一段落した後、上京の命を受けた桂中将は、十一月二十四日、上京し、高島陸軍大臣に、地震災害の状況を報告し、「非常臨時の措置は止むを得なかったが、越権行為は免れない」と辞表を提出した。
師団長は天皇直轄の親補職で天皇が任命するので、高島陸軍大臣は参内して事情を奏上した。明治天皇は、「桂の処置は機宜に適した行動であった」と嘉賞され、辞表は却下された。
第三師団長・桂中将に対して、十二月、岐阜県の村民から、翌明治二十五年十月には名古屋市民を代表して市長から、十二月には愛知県知事から感謝状が贈られた。
明治二十七年六月一日、朝鮮政府が甲午農民戦争の鎮圧のために清国へ出兵を依頼したとの電文が日本政府に入った。
六月二日に閣議が開かれ、日本も公使館と居留民の保護を名目に朝鮮に出兵することを決定した。政府は広島の第五師団を動員、混成旅団を編成して九日、朝鮮に向けて出港させた。
以後、日本と清国は外交交渉が決裂した。日本側は、大院君(李氏朝鮮末期の王族・閔妃と対立)に接触し、摂政にすることを約束した。
その次の陸軍次官兼軍務局長に就任したのは、岡沢精(おかざわ・くわし)少将(山口・戊辰戦争・維新後陸軍大阪第二教導隊・四等軍曹<二十七歳>・御親兵大隊長・准中尉<二十七歳>・大尉<二十七歳>・少佐<二十七歳>・御親兵五番大隊長・近衛歩兵第一連隊大隊長・別働第一旅団参謀長・東京鎮台参謀長・大佐<三十六歳>・西部監軍部参謀・近衛参謀長・少将<四十一歳>・歩兵第八旅団長・陸軍次官兼軍務局長・将校学校監・監軍部参謀長・大本営軍事内局長兼侍従武官・中将<五十一歳>・男爵・侍従武官長・大将<六十歳>・侍従武官長・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級)だった。
第三師団長転任の辞令を受けた後、桂太郎中将は、六月五日には名古屋の師団司令部に到着し、直ちに命課布達式を行った。そして九日には師団長として、初訓示を行なった。
この素早い着任は、桂中将として考えのあってのことだった。師団長が新たに任命された時は、一週間以内に着任し、職務に就かねばならない規定があった。
だが、当時、規定より二、三倍も長い日数をかけて、ようやく赴任する師団長も多々見られたのである。病気であるとか、事故であるというような理由をつけていた。
師団長たるもの、これでは、あまりにだらしないと、桂中将は思っていたのだ。師団長として多数の将兵の上に立つ者が、規則を破るようでは、どうして部下の指導ができようかと。
七月中旬以降、第三師団長・桂太郎中将は、第三師団管下の、愛知・静岡・三重・岐阜・福井・石川・富山の七県に展開する各衛戍地の軍隊を検閲した。
桂中将が着任した、その年の十月二十八日、濃尾(のうび)地震が発生した。震度七(マグニチュード八・四)という大地震で、岐阜県、愛知県にまたがる濃尾平野を中心に甚大な被害が出た。死者七〇〇〇人以上、負傷者一七〇〇〇人以上、家屋全壊一四〇〇〇〇戸以上、半壊八〇〇〇〇戸以上という大被害だった。
名古屋市も被害が多く、死者一八七名、負傷者二七七名、家屋全壊一〇五二戸、半壊一〇九七戸だった。
名古屋城内にあった第三師団司令部も、頑丈な建物であったが、半壊して、司令部として使うことができないほどだった。
第三師団長・桂太郎中将は、この前例を見ない驚くべき大地震に対して、第三師団長としてどう対処するべきか、熟考した。
師団条例の規定によると、地方の擾乱(じょうらん=騒乱)、もしくは事変のあった時、師団長は地方官の要請によって、はじめて兵を出すことができる、となっていた。
だが、桂中将は考えた。地方鎮護のために常設せられている軍隊は、このような災害が起きた時に、臨機の処置をとることは当然ではないだろうか。
それは師団長の決心いかんによって決めてよいだろう。全て師団長の責任でやれば良い。条例どうり、地方官の要求を待って、行動したのでは間に合わない。
桂中将は、旅団(約五〇〇〇名)の出動命令を下し、地震災害の市民保護、人命救助、火災消火の任務を与えた。衛生隊も組織して派遣した。
軍隊の派遣について、桂中将は、十月三十日に具体的な報告を陸軍大臣・高島鞆之助中将に、提出した。
さらに救助活動が一段落した後、上京の命を受けた桂中将は、十一月二十四日、上京し、高島陸軍大臣に、地震災害の状況を報告し、「非常臨時の措置は止むを得なかったが、越権行為は免れない」と辞表を提出した。
師団長は天皇直轄の親補職で天皇が任命するので、高島陸軍大臣は参内して事情を奏上した。明治天皇は、「桂の処置は機宜に適した行動であった」と嘉賞され、辞表は却下された。
第三師団長・桂中将に対して、十二月、岐阜県の村民から、翌明治二十五年十月には名古屋市民を代表して市長から、十二月には愛知県知事から感謝状が贈られた。
明治二十七年六月一日、朝鮮政府が甲午農民戦争の鎮圧のために清国へ出兵を依頼したとの電文が日本政府に入った。
六月二日に閣議が開かれ、日本も公使館と居留民の保護を名目に朝鮮に出兵することを決定した。政府は広島の第五師団を動員、混成旅団を編成して九日、朝鮮に向けて出港させた。
以後、日本と清国は外交交渉が決裂した。日本側は、大院君(李氏朝鮮末期の王族・閔妃と対立)に接触し、摂政にすることを約束した。