大正六年五月帰国。参謀本部部員。大正七年六月歩兵少佐。大正八年二月ヨーロッパ出張。四月帰国、木場清子と結婚。十一月スイス公使館附武官。大正十年六月帰国、参謀本部部員。
以上のように、梅津美治郎少佐は、八年近くをヨーロッパで駐在員生活を送った。このように長い海外生活が、ヨーロッパ風の合理的精神を身につけさせた。
つまり、明治の余波の抜けきれない古い陸軍からヨーロッパ風の合理的陸軍、換言すれば精神第一主義より、いわば物質主義、兵器優先主義への波動をひしひしと生来合理的な梅津少佐をして感得させ、さらに彼を合理的主義者とならせた。
矢野機(やの・はかる)中将(東京・陸士一八・陸大二五・スイス駐在・歩兵中佐・侍従武官・歩兵大佐・教育総監部庶務課長・歩兵第六連隊長・歩兵学校教導隊長・朝鮮軍参謀・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令部総務部長・第三師団司令部附・予備役・歩兵第二五旅団長・中将・歩兵学校長・終戦・平成四年死去・享年百五歳・功三級)は、大正十年十一月から、スイスに駐在した。
スイス公使館附武官当時の梅津美治郎少佐の思い出を、矢野機元中将(当時大尉)は、戦後、次の様に回想している(要旨抜粋)。
当時閣下は単身赴任せられあり、公使館から離れた町の独立家屋を住居とし、その一部を武官の公室としておられ、スイス婦人(年齢三十乃至四十歳位)を家政婦兼事務員として使用し、同じ家に暮らしておられた。
閣下と私とは同郷であり、中央幼年学校ご在学当時から交際を頂いた仲ではありますが、公私の別は極めてはっきりされ、公私共に私からお尋ねしたことは親切にお教え下さったが、閣下の方から進んで私の考えなり行動に意見を述べられたことは殆どなかったと記憶します。
閣下の服装は常に端正と申すべく、公室内の整頓は簡素な調度ではあったが、見事な状態で共に閣下の風格がよく現れておりました。
事プライベートに属することは、閣下は他人のことには一切触れず、また自身のことにも触れさせぬ風でした。触れかかると話題を巧みに他に替えられました。
酒も嗜まれながら、度を失したことは一度もなく、いつも理知的で冷静の態度で人に接せられた。
しかしその為、人に悪感情を抱かせることはなかったように思った。感情をあらわに出さなかったことにも因ると思うのです。以上思い浮かぶまま認めました。
以上が矢野機元中将の回想だが、梅津大将の冷静沈着な軍人としての態度は、当時から身につけていた。
梅津美治郎少佐は、大正十二年二月中佐に進級し、三月陸軍省軍務局軍事課員(高級課員)となり、兼任として陸軍大学校の軍制学の教官として出向している。
当時、陸軍大学校の学生(三六期)であった有末精三(ありすえ・せいぞう)中将(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・歩兵中佐・イタリア大使館附武官・航空兵中佐・航空兵大佐・軍務局軍事課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・対連合軍連絡委員長・戦後駐留米軍顧問・日本郷友連盟会長・平成四年死去・享年九十七歳・勲二等)は、次の様に回想している(要旨抜粋)。
私が初めて梅津大将に接したのは、大正十三年、私が陸軍大学校三年生の時で、大将は当時教官で、まだ中佐でした。
当時の陸大の教官方の双璧は、何といっても陸士第十六期生の永田鉄山氏と第十五期生の梅津美治郎氏の両中佐であった。
軍隊教育についての永田中佐の精神的、理論的、理想的等、大上段に振りかぶっての指導振りに対し、陸軍軍政についての梅津中佐のそれは実務的、実際的等おちのない指導振りという違いがあった。
当時、教材になったのは陸軍大臣文官制の問題であった。学生の一部進歩的(?)分子のものは、文官大臣でなければならぬと主張した。
だが、他の多くのものは、文官大臣は絶対に排除し、武官大臣制を貫くべきだとの所論で、所謂総論的に対立していた。
この状況に対して、梅津教官は、そんなやかましい議論よりは、文官大臣制になった場合に、その弊害を除くための処理方策を、如何に考えるべきやというのが指導の原案であった。
以上のように、梅津美治郎少佐は、八年近くをヨーロッパで駐在員生活を送った。このように長い海外生活が、ヨーロッパ風の合理的精神を身につけさせた。
つまり、明治の余波の抜けきれない古い陸軍からヨーロッパ風の合理的陸軍、換言すれば精神第一主義より、いわば物質主義、兵器優先主義への波動をひしひしと生来合理的な梅津少佐をして感得させ、さらに彼を合理的主義者とならせた。
矢野機(やの・はかる)中将(東京・陸士一八・陸大二五・スイス駐在・歩兵中佐・侍従武官・歩兵大佐・教育総監部庶務課長・歩兵第六連隊長・歩兵学校教導隊長・朝鮮軍参謀・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令部総務部長・第三師団司令部附・予備役・歩兵第二五旅団長・中将・歩兵学校長・終戦・平成四年死去・享年百五歳・功三級)は、大正十年十一月から、スイスに駐在した。
スイス公使館附武官当時の梅津美治郎少佐の思い出を、矢野機元中将(当時大尉)は、戦後、次の様に回想している(要旨抜粋)。
当時閣下は単身赴任せられあり、公使館から離れた町の独立家屋を住居とし、その一部を武官の公室としておられ、スイス婦人(年齢三十乃至四十歳位)を家政婦兼事務員として使用し、同じ家に暮らしておられた。
閣下と私とは同郷であり、中央幼年学校ご在学当時から交際を頂いた仲ではありますが、公私の別は極めてはっきりされ、公私共に私からお尋ねしたことは親切にお教え下さったが、閣下の方から進んで私の考えなり行動に意見を述べられたことは殆どなかったと記憶します。
閣下の服装は常に端正と申すべく、公室内の整頓は簡素な調度ではあったが、見事な状態で共に閣下の風格がよく現れておりました。
事プライベートに属することは、閣下は他人のことには一切触れず、また自身のことにも触れさせぬ風でした。触れかかると話題を巧みに他に替えられました。
酒も嗜まれながら、度を失したことは一度もなく、いつも理知的で冷静の態度で人に接せられた。
しかしその為、人に悪感情を抱かせることはなかったように思った。感情をあらわに出さなかったことにも因ると思うのです。以上思い浮かぶまま認めました。
以上が矢野機元中将の回想だが、梅津大将の冷静沈着な軍人としての態度は、当時から身につけていた。
梅津美治郎少佐は、大正十二年二月中佐に進級し、三月陸軍省軍務局軍事課員(高級課員)となり、兼任として陸軍大学校の軍制学の教官として出向している。
当時、陸軍大学校の学生(三六期)であった有末精三(ありすえ・せいぞう)中将(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・歩兵中佐・イタリア大使館附武官・航空兵中佐・航空兵大佐・軍務局軍事課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・対連合軍連絡委員長・戦後駐留米軍顧問・日本郷友連盟会長・平成四年死去・享年九十七歳・勲二等)は、次の様に回想している(要旨抜粋)。
私が初めて梅津大将に接したのは、大正十三年、私が陸軍大学校三年生の時で、大将は当時教官で、まだ中佐でした。
当時の陸大の教官方の双璧は、何といっても陸士第十六期生の永田鉄山氏と第十五期生の梅津美治郎氏の両中佐であった。
軍隊教育についての永田中佐の精神的、理論的、理想的等、大上段に振りかぶっての指導振りに対し、陸軍軍政についての梅津中佐のそれは実務的、実際的等おちのない指導振りという違いがあった。
当時、教材になったのは陸軍大臣文官制の問題であった。学生の一部進歩的(?)分子のものは、文官大臣でなければならぬと主張した。
だが、他の多くのものは、文官大臣は絶対に排除し、武官大臣制を貫くべきだとの所論で、所謂総論的に対立していた。
この状況に対して、梅津教官は、そんなやかましい議論よりは、文官大臣制になった場合に、その弊害を除くための処理方策を、如何に考えるべきやというのが指導の原案であった。