しかも、その重点は、統帥の根本になるべき陸軍軍人人事行政独立についての法令規定の立案であったことを、今もって忘れられぬほど強く印象づけられたのであった。
また、当時同じく陸軍大学校の学生であった、松村知勝(まつむら・ともかつ)少将(福井・陸士三三・陸大四〇・ソ連駐在・ポーランド兼ルーマニア公使館附武官補佐官・歩兵中佐・陸軍大学校教官・参謀本部戦史課長・大本営研究班長・歩兵大佐・参謀本部ロシア課長・関東軍作戦課長・少将・関東軍総参謀副長・終戦・シベリア抑留・昭和五十四年死去・享年八十歳)は次の様に回想している。
昭和三年初め頃、梅津大将は参謀本部第一課長(編制・動員)で、陸軍大学校兵学教官を兼ねており、私は三年学生としてその編制制度に関する講義を聞いたことがある。
梅津大佐は、「軍部大臣文官制をどう思うか」という問題を出し、筆記答解を求められた。当時、この問題は政界にくすぶっており、陸軍の態度はもちろん絶対反対であった。
だが、学生は問題のいきさつはよく知らないし、こだわりも持たないから、勝手な意見を書いたようだった。
梅津教官は答解を点検してから、その利害得失を簡単に説明されたが、結論は言わず、「お前たち、自分でよく考えてみろ」といった態度であった。
これは梅津大将の合理主義的な一面を示すと共に、教育方法に対するその考え方を現しているように思えた。
同じ頃、東條英機大将は中佐で陸軍省軍事課の高級課員であり、やはり兵学教官を兼ねており、軍政一般に関する講義があった。
そして同じような問題を出された。だが、東條教官の説明は簡明直接的なものだった。「文官大臣でもいいと考えているものがある。けしからん。もってのほかだ」と叱られた。
ここに梅津大将と、東條大将の性格の相違があるように、私は若いながらそう考えた。
最後に、当時同じく陸軍大学校の学生であった、松村秀逸(まつむら・しゅういつ)少将(熊本・陸士三二・陸大四〇・陸軍省情報部長・砲兵大佐・内閣情報局第二部第一課長・内閣情報局第一部長・大本営陸軍部報道部長・中国軍管区参謀長兼第五九軍参謀長・広島で原爆により被曝・戦後参議院議員・昭和三十七年病死・享年六十二歳)も、次の様に回想している。
昭和三年、梅津が軍事課長として陸大教官を兼任していた時の話である。担当の軍制学の講義のはじめに、「陸軍大臣は文官がよいか、武官がよいか」という質問を発した。
当時、三年学生の総数四十七名、陸士の二七期から三四期までの卒業生の中から選抜されたもので、前の方から先任順に並んでいた。
梅津さんは、後ろの若い方から順序に質問していた。丁度十人目で、文官賛成者八名、武官と答えた者二人という比率になった。
利口な彼は一寸あわてだした。軍の最高学府の陸大の三年学生の理論が、圧倒的に文官陸相論者であったということになると、問題がウルサクなる。
「今の質問は取り消す。私がこんな質問を諸官にしたということも取り消す」とあっさり取り消し、その後一切、この問題にはふれなかった。
以上が、梅津大将が中佐で陸大教官であった当時のエピソードだが、梅津大将の軍人としての合理主義の一面がうかがえる。
昭和五年八月梅津美治郎大佐は少将に進級し、歩兵第一旅団長に補された。一年後の昭和六年八月梅津少将は参謀本部総務部長に任ぜられた。四十九歳だった。
当時、陸軍省整備局統制課勤務の中山貞武(なかやま・さだたけ)少佐(高知・陸士二九・陸大四一・関東軍参謀・第三軍作戦主任・歩兵学校研究部主事・大佐・第三軍高級参謀・第二五軍参謀長・少将・第一一軍参謀長・第六方面軍参謀長・漢口で終戦)は、陸軍軍需審議会の主任幹事を兼任していた。
昭和八年当時の陸軍軍需審議会委員は次の通り。
参謀本部作戦課長・鈴木率道(すずき・よりみち)中佐(広島・陸士二二・陸大三〇首席・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・志支那駐屯砲兵連隊長・少将・第二軍参謀長・陸軍航空本部総務部長・中将・兼陸軍航空総監部航空総監代理・第二航空軍司令官・予備役・昭和十八年病死・死去五十三歳・従三位・勲一等・功三級)。
また、当時同じく陸軍大学校の学生であった、松村知勝(まつむら・ともかつ)少将(福井・陸士三三・陸大四〇・ソ連駐在・ポーランド兼ルーマニア公使館附武官補佐官・歩兵中佐・陸軍大学校教官・参謀本部戦史課長・大本営研究班長・歩兵大佐・参謀本部ロシア課長・関東軍作戦課長・少将・関東軍総参謀副長・終戦・シベリア抑留・昭和五十四年死去・享年八十歳)は次の様に回想している。
昭和三年初め頃、梅津大将は参謀本部第一課長(編制・動員)で、陸軍大学校兵学教官を兼ねており、私は三年学生としてその編制制度に関する講義を聞いたことがある。
梅津大佐は、「軍部大臣文官制をどう思うか」という問題を出し、筆記答解を求められた。当時、この問題は政界にくすぶっており、陸軍の態度はもちろん絶対反対であった。
だが、学生は問題のいきさつはよく知らないし、こだわりも持たないから、勝手な意見を書いたようだった。
梅津教官は答解を点検してから、その利害得失を簡単に説明されたが、結論は言わず、「お前たち、自分でよく考えてみろ」といった態度であった。
これは梅津大将の合理主義的な一面を示すと共に、教育方法に対するその考え方を現しているように思えた。
同じ頃、東條英機大将は中佐で陸軍省軍事課の高級課員であり、やはり兵学教官を兼ねており、軍政一般に関する講義があった。
そして同じような問題を出された。だが、東條教官の説明は簡明直接的なものだった。「文官大臣でもいいと考えているものがある。けしからん。もってのほかだ」と叱られた。
ここに梅津大将と、東條大将の性格の相違があるように、私は若いながらそう考えた。
最後に、当時同じく陸軍大学校の学生であった、松村秀逸(まつむら・しゅういつ)少将(熊本・陸士三二・陸大四〇・陸軍省情報部長・砲兵大佐・内閣情報局第二部第一課長・内閣情報局第一部長・大本営陸軍部報道部長・中国軍管区参謀長兼第五九軍参謀長・広島で原爆により被曝・戦後参議院議員・昭和三十七年病死・享年六十二歳)も、次の様に回想している。
昭和三年、梅津が軍事課長として陸大教官を兼任していた時の話である。担当の軍制学の講義のはじめに、「陸軍大臣は文官がよいか、武官がよいか」という質問を発した。
当時、三年学生の総数四十七名、陸士の二七期から三四期までの卒業生の中から選抜されたもので、前の方から先任順に並んでいた。
梅津さんは、後ろの若い方から順序に質問していた。丁度十人目で、文官賛成者八名、武官と答えた者二人という比率になった。
利口な彼は一寸あわてだした。軍の最高学府の陸大の三年学生の理論が、圧倒的に文官陸相論者であったということになると、問題がウルサクなる。
「今の質問は取り消す。私がこんな質問を諸官にしたということも取り消す」とあっさり取り消し、その後一切、この問題にはふれなかった。
以上が、梅津大将が中佐で陸大教官であった当時のエピソードだが、梅津大将の軍人としての合理主義の一面がうかがえる。
昭和五年八月梅津美治郎大佐は少将に進級し、歩兵第一旅団長に補された。一年後の昭和六年八月梅津少将は参謀本部総務部長に任ぜられた。四十九歳だった。
当時、陸軍省整備局統制課勤務の中山貞武(なかやま・さだたけ)少佐(高知・陸士二九・陸大四一・関東軍参謀・第三軍作戦主任・歩兵学校研究部主事・大佐・第三軍高級参謀・第二五軍参謀長・少将・第一一軍参謀長・第六方面軍参謀長・漢口で終戦)は、陸軍軍需審議会の主任幹事を兼任していた。
昭和八年当時の陸軍軍需審議会委員は次の通り。
参謀本部作戦課長・鈴木率道(すずき・よりみち)中佐(広島・陸士二二・陸大三〇首席・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・志支那駐屯砲兵連隊長・少将・第二軍参謀長・陸軍航空本部総務部長・中将・兼陸軍航空総監部航空総監代理・第二航空軍司令官・予備役・昭和十八年病死・死去五十三歳・従三位・勲一等・功三級)。