陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

665.梅津美治郎陸軍大将(5)軽度の脳溢血に罹った梅津さんの昨今は大分に鈍ってきて先もみえた

2018年12月21日 | 梅津美治郎陸軍大将
 参謀本部編制動員課長・東條英機(とうじょう・ひでき)大佐(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官・中将・関東軍参謀長・陸軍次官兼航空本部長・航空総監・陸軍大臣・内閣総理大臣兼陸軍大臣・兼総参謀長・予備役・終戦・昭和二十三年A級戦犯で刑死・享年六十四歳・正三位・旭日大綬章・功二級・ドイツ端鷲勲章大十字章等)。

 陸軍省整備局動員課長・横山勇(よこやま・いさむ)大佐(福島・陸士二一・陸大二七・陸軍省資源局企画部第二課長・関東軍司令部附・歩兵大佐・陸軍省整備局動員課長・歩兵第二連隊長・第六師団参謀長・少将・陸軍省資源局企画部長・企画院総務部長・企画院第一部長・中将・第一師団長・第四軍司令官・第一一軍司令官・西部軍司令官・第一六方面軍司令官兼西部軍管区司令官・昭和二十七年巣鴨プリズンで病死・享年六十三歳)。

 その他、教育総監部第一課長、技術本部第一課長等。

 また、陸軍軍需審議会の参与は次の通り。

 参謀本部総務部長・梅津美治郎(うめづ・よしじろう)少将(大分・陸士一五・陸大二三首席・陸軍省軍務局軍事課高級課員・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部総務部長・支那駐屯軍司令官・中将・第二師団長・陸軍次官・第一軍司令官・関東軍司令官・大将・参謀総長・終戦・A級戦犯・巣鴨刑務所収監・昭和二十四年病死・享年六十七歳)。

 陸軍省整備局長・林桂(はやし・かつら)少将(和歌山・陸士一三・陸大二一恩賜・陸軍大学校教官・歩兵大佐・近衛歩兵第一連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第一旅団長・参謀本部第四部長・軍事調査委員長・陸軍省整備局長・中将・教育総監部本部長・第五師団長・予備役・昭和三十六年死去・享年八十一歳・勲一等旭日大綬章)。

 その他、教育総監部第一部長、技術本部第一部長等。

 この、陸軍軍需審議会を統括したのは、陸軍次官・柳川平助(やながわ・へいすけ)中将(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・参謀本部附・国連派遣・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・騎兵学校長・気閉監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・昭和二十年病死・享年六十五歳・従二位・功二級)だった。

 前述の、当時陸軍省整備局統制課勤務の中山貞武少佐の回想は次の通り。

 同審議会は、陸軍諸兵科用兵器・資材等に充足せしむべき要件の査定、制式決定前の厳重な試験研究を実施する関門となっていたのである。

 本会議の席上では、透徹した理論で鋭い論鋒を繰り出す参謀本部作戦課長・鈴木率道中佐に対し、ともすれば受け身に立つ参謀本部編制動員課長・東條英機大佐のいら立ち、時として感情に色をなす対立が、熾烈真剣そのものだった。

 この対立する両者の上司である、参謀本部総務部長・梅津美治郎少将は、かかる際、あの上品な鴈治郎張りの顔に、時々チラッと薄雲のよぎるのを呈するだけで、一度も発言がなかったように記憶する。

 我々陸軍省や総監部、技術本部の連中の中には、「軽度の脳溢血に罹った梅津さんの昨今は大分に鈍ってきて先もみえた」と囁く者もあったが、私はそれ以上の係わりは持たなかったので、真実は分からぬ。(以上、中山貞武少佐の回想)

 松村知勝少将は、当時、昭和六年八月に参謀本部総務部長に就任した梅津美治郎少将の部下として、第一課編制班の若い課員(三十四歳)で、少佐だった。

 間もなく、昭和六年九月十八日、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発した。

 陸軍には各種の戦時勤務令というものがあった。これは戦時の高等司令部、あるいは平時にはない戦時特設の部隊の各級幹部の任務と権限を規定し、その行動の基準を示すものだった。

 関東軍司令部には平時から「関東軍司令部条例」があったが、満州事変が始まると、その任務が拡大され、内容も変わったので、「関東軍司令部勤務令」を作ることになり、松村知勝少佐はその主任者だった。