野村吉三郎という人間が、そうした大言壮語の東洋豪傑型とは趣を異にしているのは、彼を知るほどの者の等しく認めるところである。
野村吉三郎大尉は、明治四十一年三月三日付けで、オーストリア駐在を仰せつけられた。
このオーストリアへの出発の二日前に、野村吉三郎大尉の妹・せいの夫、保田芳雄海軍少佐の知人の娘と、野村吉三郎大尉(三十一歳)は、結婚式を挙げた。出発の為、式を急いだのである。
保田芳雄海軍少佐の知人の娘とは、奈良県郡山市で、以前は郡長等の地方官吏だった山岸鹿雄の三女、山岸秀子(ニ十歳)だった。
秀子が、野村吉三郎と生涯を共にした四十余年の歳月は、如何なる家庭婦人にも劣らぬ質実で貞淑、かつ愛情あふれる婦徳一途の人生であったことは、他の誰よりも野村吉三郎自身が一番よく知っていた。
野村吉三郎大尉が派遣された、オーストリアは、正確にいえば、オーストリア=ハンガリー帝国であった。ヨーロッパでもっとも古い伝統を誇る宮廷国家であり、貴族国家だった。
アメリカのある批評家が、「ウィーンではバロン(男爵)以上でないと人間扱いにしない」と、嘆息したと伝えられている。
それは、オーストリアの半面を物語っている。当時、ウィーンの社交界は、全ヨーロッパの伝統的な上流社会の、社交の中心でもあったのである。
当時のオーストリアは、複雑極まる組織を持った複合国家でもあった。
オーストリア=ハンガリー帝国は、その称号が示すように、オーストリア帝国(現在はオーストリア・共和国)とハンガリー王国(現在はハンガリー・第三共和国)の連合に、旧ポーランド王国領のガリツィア(現在のウクライナ・共和国南西部地域)、それからボヘミア(現在のチェコ・共和国西部・中部地方)、及びクロアチア(現在のクロアチア・共和国)を併合した複合国家だった。
そのうち、ガリツィア、ボヘミア、クロアチアの三国はオーストリア帝国(ハプスブルク家)に征服されて、その領土に編入されることとなった国家だったので、統治には手を焼いていた。
当時、明治四十一年(一九〇八年)のオーストリア=ハンガリー帝国の元首は、六十年余りの長きに渡ってハプスブルク帝国の皇帝として君臨してきた、フランツ・ヨーゼフ一世(七十八歳)だった。
ちなみに、ハプスブルク帝国は、一九一八年(大正七年)のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に伴い、六五〇年間中央ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の帝国支配が終焉し、当時の皇帝カール一世は国外へ亡命した。
さて、野村吉三郎大尉が駐在した当時のオーストリア=ハンガリー帝国は、他に類を見ない複雑極まる取り決めによって連合国家を形成していた。
元首のフランツ・ヨーゼフ一世は、オーストリアにおいては「皇帝」、ハンガリーにおいては「国王」で、“エンペラー・キング”と称されていた。
両国ともそれぞれ全く独立した国家形態を呈し、ただ、外交と国防だけは両国共同でこれに当たるので、それに伴う経費も両国協議して負担する。
そのため、外務、国防、財務の三大臣は、両国の上に立って共同の政務を執行し、両国間の連鎖機関の役割を果たしていた。
それ以外のことは、両国とも別々の機関によって、統治されているので、上記の三大臣によって執行される共同政務に参与せしめるために、両国の議会から四〇人ずつの代表委員が選出され、合計八〇人で委員会を構成していた。
これは“デレゲーション”と呼ばれ、三大臣はこの“デレゲレーション”に対して責任を負い、“デレゲレーション”は、それぞれの議会に対して責任を負うという、実に複雑な仕組みになっていた。
両国が対等の立場をとっていることを裏付ける為に、オーストリア皇帝は毎年一定の期間中は、ハンガリーの首府、ブタペストに移り、そこでハンガリー国王として執務し、外交団もブタペストに移るという全く奇妙な国家組織だった。
野村吉三郎大尉は、明治四十一年三月三日付けで、オーストリア駐在を仰せつけられた。
このオーストリアへの出発の二日前に、野村吉三郎大尉の妹・せいの夫、保田芳雄海軍少佐の知人の娘と、野村吉三郎大尉(三十一歳)は、結婚式を挙げた。出発の為、式を急いだのである。
保田芳雄海軍少佐の知人の娘とは、奈良県郡山市で、以前は郡長等の地方官吏だった山岸鹿雄の三女、山岸秀子(ニ十歳)だった。
秀子が、野村吉三郎と生涯を共にした四十余年の歳月は、如何なる家庭婦人にも劣らぬ質実で貞淑、かつ愛情あふれる婦徳一途の人生であったことは、他の誰よりも野村吉三郎自身が一番よく知っていた。
野村吉三郎大尉が派遣された、オーストリアは、正確にいえば、オーストリア=ハンガリー帝国であった。ヨーロッパでもっとも古い伝統を誇る宮廷国家であり、貴族国家だった。
アメリカのある批評家が、「ウィーンではバロン(男爵)以上でないと人間扱いにしない」と、嘆息したと伝えられている。
それは、オーストリアの半面を物語っている。当時、ウィーンの社交界は、全ヨーロッパの伝統的な上流社会の、社交の中心でもあったのである。
当時のオーストリアは、複雑極まる組織を持った複合国家でもあった。
オーストリア=ハンガリー帝国は、その称号が示すように、オーストリア帝国(現在はオーストリア・共和国)とハンガリー王国(現在はハンガリー・第三共和国)の連合に、旧ポーランド王国領のガリツィア(現在のウクライナ・共和国南西部地域)、それからボヘミア(現在のチェコ・共和国西部・中部地方)、及びクロアチア(現在のクロアチア・共和国)を併合した複合国家だった。
そのうち、ガリツィア、ボヘミア、クロアチアの三国はオーストリア帝国(ハプスブルク家)に征服されて、その領土に編入されることとなった国家だったので、統治には手を焼いていた。
当時、明治四十一年(一九〇八年)のオーストリア=ハンガリー帝国の元首は、六十年余りの長きに渡ってハプスブルク帝国の皇帝として君臨してきた、フランツ・ヨーゼフ一世(七十八歳)だった。
ちなみに、ハプスブルク帝国は、一九一八年(大正七年)のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊に伴い、六五〇年間中央ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の帝国支配が終焉し、当時の皇帝カール一世は国外へ亡命した。
さて、野村吉三郎大尉が駐在した当時のオーストリア=ハンガリー帝国は、他に類を見ない複雑極まる取り決めによって連合国家を形成していた。
元首のフランツ・ヨーゼフ一世は、オーストリアにおいては「皇帝」、ハンガリーにおいては「国王」で、“エンペラー・キング”と称されていた。
両国ともそれぞれ全く独立した国家形態を呈し、ただ、外交と国防だけは両国共同でこれに当たるので、それに伴う経費も両国協議して負担する。
そのため、外務、国防、財務の三大臣は、両国の上に立って共同の政務を執行し、両国間の連鎖機関の役割を果たしていた。
それ以外のことは、両国とも別々の機関によって、統治されているので、上記の三大臣によって執行される共同政務に参与せしめるために、両国の議会から四〇人ずつの代表委員が選出され、合計八〇人で委員会を構成していた。
これは“デレゲーション”と呼ばれ、三大臣はこの“デレゲレーション”に対して責任を負い、“デレゲレーション”は、それぞれの議会に対して責任を負うという、実に複雑な仕組みになっていた。
両国が対等の立場をとっていることを裏付ける為に、オーストリア皇帝は毎年一定の期間中は、ハンガリーの首府、ブタペストに移り、そこでハンガリー国王として執務し、外交団もブタペストに移るという全く奇妙な国家組織だった。